1949年10月1日、毛沢東国家主席は、天安門上で、共産主義国家・中華人民共和国の建国を宣言した。今から70年前のことである。
それは、外国の影響を排除し、キリスト教を中国化する第一歩でもあった。51年までに、当時、6千人いた外国人宣教師は、国外退去を余儀なくされ、その多くの宣教師たちは第二の奉仕先としてアジア諸国に赴き、日本にも約四百人の宣教師が来日、終戦後の日本における宣教の前進に大きな力となった。
同時に、中国政府は、宗教局を設置、教会が、中国独自の自治、自給、自伝の三自を原則とした教会形成をするように指導、政府公認教会として「三自愛国教会」を設立、プロテスタントの全ての教会は、この組織に加わり、政府の指導の下に教会形成を行うよう命令が下った。当時、中国には、多くの教派が存在していたが、90%以上の教会は、政府の管理下に置かれることに抵抗を感じつつも、三自愛国教会に組み入れられ、牧師の給料も共産政府から支給されるという形で、教会は独立性を失っていき、18歳以下の青年の教会への出入り禁止などの不条理な条件を飲まざるをえなくなったのである。
だが、「教会の頭はキリストであり、共産党ではない」との信仰の宣言を行い、三自愛国教会に加わることを拒否、従来の三自に加わった教会から離れ、独自の歩みを始めた牧師、伝道者、長老などもいた。彼らは、家庭で集会を始め、聖書信仰に立った教会形成を試みていった。いわゆる家の教会の誕生である。
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56年から、家の教会への弾圧が始まる。約千人に及ぶ、家の教会の牧師、伝道者などのリーダーたちが、全国で一斉に逮捕され、中国政府が公認した教会に加わらない「反革命分子」という罪状で、正式な裁判もなく、多くが、20年以上の懲役刑となり、辺境地にある労働改造所送りとなった。
残された群れは信徒だけの信仰共同体であり、信仰を失う者もあったが、それまで、牧師に頼りきっていた信徒が、直接、生ける神に救いを求めた結果、人間の努力ではなく、神が働かれていることを人々は体験し、家族を中心に、福音は浸透していった。
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66年から中国全土に吹き荒れた文化大革命の嵐は、キリスト教会をも襲い、毛沢東の手先として暴動を起こした紅衛兵の手によって、キリスト教会にあったほとんどの聖書は燃やされ、以後、十数年に渡って、中国は霊的飢饉(ききん)に見舞われた。政府が公認した三自愛国教会も閉鎖され、すべての十字架は取り除かれ、教会堂は、倉庫や体育館などに転用された。
文化大革命の時代、中国人同士の争いで数百万の人々が命を失ったと言われるが、その中には、約5万人のクリスチャンも含まれているという報告もある。
だが、このような極度の弾圧の時代にも、家の教会は地下水のように、そのいのちを広げていった。1970年代はじめには、約1千万ものクリスチャンがいたという統計もある。
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70年代前半、国際的宣教団体「オープンドアーズ」などが中国宣教への働きかけを開始、中国語聖書を家の教会へ届ける働きが各国で始まった。日本からも、78年、中国への旅行が可能になったのを機に、聖書を届ける働きが始まり、現在までに、100万冊以上の中国語聖書が家の教会に届けられ、中国のリバイバルの一端を担ったのである。一つの例として、2002年、黄土高原にあった家の教会の群れからの要請で、日本からの聖書配布が始まり、現在までに約2万5千冊の聖書が届けられ、02年当初、約千人の群れであったその家の教会は、この15年で、主を信じる者が7万人に増える成長を見せている。建国当時、約70万人だったクリスチャンは、00年の統計では、三自愛国教会が3千万、家の教会が6千万、カトリックが1千万という驚くべき数字を出している。18年現在では、中国のクリスチャン人口は1億2千万人という報告もある。
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だが、12年に習近平政権が発足以来、再び文化大革命時代に匹敵するキリスト教迫害が始まった。その原因は、キリスト教が余りにも大躍進を遂げ、共産党員にもその影響が及んでいることにある。政府は、外国の宣教団体と関係を持ち成長を遂げている家の教会への弾圧はもちろん、政府公認の教会へも弾圧を始め、十字架を取られた三自愛国教会は全国で4千以上にも及んでいる。さらに、教会の礼拝前に国歌斉唱や、共産党をたたえる歌を強要されるケースも出ている。「キリスト教の中国化」の名の下に、今、中国のキリスト教会は、聖書の真理を否定する闇の力の挑戦を受けている。