10月27日号紙面:今、教育の担い手に求められていることとは 「破れを抱えながら生きる」 「基督教教助会」創立100周年記念シンポ
今、教育の担い手に求められていることとは 「破れを抱えながら生きる」 「基督教教助会」創立100周年記念シンポ
【合同取材】学生伝道に志を抱き、学生を対象に積極的な伝道を展開した森明により1919年に始められ、教育や福祉、アジアの国の人々との友好など、多様な分野で貢献してきた基督教共助会が今年、創立100周年を迎えた。それを記念しシンポジウム第1回「『教育の明日』を考える」(同主催)が10月14日、東京・杉並区高井戸の日基教団・高井戸教会で開催された。主題は「何が人を『人格』にするのか─今、教育の担い手に求められていること─」。
プログラムは、午前中に安積力也(私立学校元校長)、新江進(キリスト教愛真高等学校教諭)、三島亮(基督教独立学園高等学校教頭)、鈴木実(日本聾話学校校長)の4氏が発題し、午後は指定応答者による応答、分団(4グループに分かれて各自の応答をシェア)、全体会と進行した。
発題では、各氏がキリスト教教育に携わる中で経験した過ち、葛藤、自分自身の弱さ、その中で受け取った他者からの励まし、恵みなどを、率直に分かち合った。
安積氏は、教師2年目の悲しい体験を語った。「私は最初に受け持ったクラスから殺人犯を出した教師。親しくなった一級下の女子との関係が悪化した果ての凶行だった。私は誰よりも彼と向き合い、分かっているつもりだったが、彼の苦悩にまったく気づけなかった。事件後、彼が私に言った言葉は『先生は立派すぎて、こんなこと相談できなかった』だった。生徒がいちばん助けを必要とする時に助け手になれなかった私は、教師失格だった。いったい『一人の他者』と真実に向き合うとはどういうことなのか、そもそも私は、本当に他者に関心を持っている人間なのか、自問せざるをえなかった」
厳しいマスコミ取材の矢面に立たされる中、「私の知らないところで執り成しの祈りをしてくれる人がいたから、私はかろうじて自己崩壊から免れた。祈りなくして教育はあり得ないと思い知った」と語った。
新江氏は、教員になってから数年目の挫折経験を明かした。「生徒が指導の対象となる事柄を行い、その結果、職員会議では退学との結論が出た。私はその結論を受け入れられなかった。しかし、議論の末に、私はそんな自分を表現することを諦め、折れた。それは私にとって、生徒への責任を放棄し、私の中で大切にしていた核のようなものを手放し、踏みつぶす出来事だった。自己が分裂していく中で、体は正直に反応し、常に発熱する状態が続いた。教師をやめたいと思った」
そんな新江さんの心を変えたのが、昨年の勤務先の研修会の開会礼拝で、「学校の問題を目の前にし、涙ながらにありのままの自分の姿を語り、神のまえに頭を垂れる」校長の姿だった。「その人自身に触れた時、自分自身の姿が照らし出される気がした。破れた教師が破れをすべて抱えながら、私を生きていくことが赦されている、それがキリスト教教育の命なんだという思いが、今の私の中にある」と語った。
17年間男子寮の舎監をしてきたという三島氏は、二面性を抱える自分の姿を正直に話した。
「ある時、一部の生徒が寮内に持ち込んではいけないものを持ち込んだ。私は、『隠し事なく生きなさい』と言いながら、舎監室では隠れてお酒を飲んでいた。生徒の前に立ちきれない自分を感じた」
「認めたくない自分の現在地を認めなければいけない、そこからしか始まらない」と語った。
鈴木氏は、「私はゆっくり歩いていこう」という卒業生の言葉を紹介。「両親や周囲の人々の愛を感じながら育ったこの生徒は15歳までの自分をこう振り返った。『心配はなくならないけれど、きっと大丈夫。これからもたくさんの苦労はあるけれど、自分らしく生きればいい…』。その自分を信じる言葉が『私はゆっくり歩いていこう』となって、内から湧いて出た」 「教育には不幸としか思えない現実を、大きな恵みに変える力がある。この言葉に教育の持つ未来や希望を見ます」と語った。【中田 朗】(*この記事は、クリスチャン新聞、キリスト新聞合同取材によるものです)