「笑顔の内にあるもの」最終回 福井生(止揚学園園長) 「さかさまの聖書」

「知能に重い障がいがある仲間たちは信仰を理解することができるのでしょうか」
このような質問を私はよくされます。そんなとき、「私たちが信仰を理解するとはいったいどういうことなのでしょうか」と問い返さずにいられなくなります。
多くの方々が、「聖書を読むことで、信仰を理解することができます」と話してくださいます。私も確かにそのとおりだと思います。けれども、文字を読むことができない仲間たちの場合はどうなのでしょうか。この人たちは信仰を理解することができないのでしょうか。
もしも信仰の理解というところに到達するために文字を読むことが条件となるならば、仲間たちはそこに行き着くことはできないでしょう。しかし、信仰とは、遠く離れたところにあるものではなく、ここにあるものであると私は思っています。信仰は、今私たちが歩んでいるこのところにあるのではないかと思うのです。

先日、東京から二十六人の四年生と五年生の子どもたちが、四日間、先生やご家族の同伴なしにやって来ました。そしてこの子どもたちと止揚学園の仲間たちとの温かい交流を、地元のテレビ局も取材に来てくださいました。
小学生と仲間たちが協力して、青空の下、運動会をしたり、大きな鉄板で焼きそばを焼いたりしました。運動会といえば、子どもたちはふだんならば早く走り、競走することを考えます。けれども、止揚学園の仲間たちの中には、歩くことが困難で、車椅子に乗っている人もいます。この運動会は一番になることが目標ではありません。手と手をつないでゆっくり歩いたり、車椅子を子どもたちに押してもらったりの、笑顔があふれる運動会です。その後は、畳一畳ほどの大きな鉄板と、調理用の大きなスコップで、焼きそばをつくりました。子どもたちは、出来上がった焼きそばを、止揚学園の仲間たち一人ひとりに運んでくれました。
こうした光景がその日の夕方、テレビのニュースで紹介されました。冒頭アナウンサーが「東近江市の重度の知的障がいがある人たちの施設止揚学園」と紹介しました。すると、それを聞いた女の子の一人が、「『重度の知的障がいがある人』って、なんだか違う人のことを言っているみたい」と言いました。
私はこの言葉にハッとさせられました。法的には正しい呼び方ですが、この女の子にとっては、仲間たちは「重度知的障がい者」ではなく、「正男さん」、そして「ミノリさん」なのです。
大人になって、人とのつながりができるというのではなく、子どもたちも人と人のつながりの中で生きていることを教えられました。

毎朝の礼拝

人は子どもであっても、大人であっても、障がいがあっても、なくても、その時点で、そのままで神様が立派に創ってくださった存在なのです。時間が流れ、状況が変わっても、決して変わらないもの、それは共に生かされていることの喜びではないでしょうか。神様への感謝ではないでしょうか。そしてその喜び、感謝こそが信仰なのではないでしょうか。

仲間の二郎さんはとても世話好きです。自分のことよりも人のことばかり気にしています。
止揚学園では毎朝礼拝の時をもちます。ある朝、自分の聖書を見つけられない仲間がいました。そんなときは二郎さんの出番です。すぐに見つけた二郎さんは大得意です。「ボクのお手柄です」と言わんばかりに自分の顔を指でさしてアピールします。それから、ようやく落ち着いて礼拝の時間となりました。
二郎さんの隣に座った職員がふと、二郎さんが真剣に見つめている聖書を見ると、さかさまになっていました。職員はその聖書をそっと回転させました。二郎さんは何もなかったかのように、またじっと聖書を見つめていました。そのまなざしに職員は、二郎さんが聖書によって包まれている温かいものに、自分自身も一緒に包まれたように感じたということです。
障がいがある仲間たちは聖書を読むことができません。でも聖書が仲間たちに優しく語りかけてくれています。聖書そのものが温かいのでしょう。仲間たちにとって、信仰は文字を読み、理解するものではなく、一緒に生きるものなのだと思います。(おわり)
*今回で、本連載は最終回となります。連載内容に加筆の上、『笑顔のうちにあるもの』として、来春出版する予定です。