罪を示し、悔い改め、献身へ 特集/日本ケズィック・コンベンション

 「みなキリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ人への手紙3・28)を掲げて多様な立場や教派の人々が集うケズィック・コンベンション。「バイブル・リーディング」では講解説教を通して聖書の御言葉をじっくりと聴き、キリストの似姿に変えられる生き方を確認する。2020年もまた、日本ケズィック・コンベンションが日本各地で開催される。ではその「ケズィック」の魅力とは何なのか、参加者の体験、「ケズィック─その歴史と特質」(藤田昌直、瀬尾要造著)でその魅力を探る。【中田 朗】

ケズィックとは一体何なのか、その魅力とは?そのことを考える前にまず、ある一人の参加者の体験を紹介したい。

─1982年、箱根ホテル小涌園で開催された第21回日本ケズィック・コンベンションに、Aさんは初めて参加した。179年、高校2年生の時に信仰を持ち、81年のクリスマスに受洗。コンベンション開催はそれから3か月後のことだった。当時大学1年生のAさんは、クリスチャンとしてはまだまだよちよち歩きの若者だったと言える。
きっかけは、教会員からの勧めだった。その教会では牧師が日本ケズィック委員会委員の一人でもあり、毎年2月になると、教会員はこぞってケズィック・コンベンションに参加するのが習慣だった。「聖書のことをもっと知りたい…」そう思ったAさんは、参加を決めた。
その年の講師はポーロ・リース、アラン・レッドパス、金俊坤(キム・ジュンゴン)の三氏。特に「御言葉の火炎放射器」との異名を持つレッドパス氏の午後のメッセージが心に響いた。「むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59・1)という聖句を中心にレッドパス氏は、神と人との仕切りとなっている罪がどういうものか具体的に示し、その罪を手放さないと神様との親密な関係は回復しないと語りかけ、その罪を悔い改めるよう強く促した。
そのメッセージを聞いて、Aさんは「心が探られた」。両親を尊敬できず、常に怒りを抱えていた。キリスト教だけでなく、仏教や他宗教の教えもいいものではないかとの考えが拭い切れなかった。神棚にお辞儀をする行為も罪意識なく普通に行っていた。「救いはただキリストのみ」という信仰に立てていなかった…。そんなAさんだったが、それらがみな罪であり、これらの罪が神様との関係を断ち切り、神様を遠ざけていることを初めて知った。心の奥底から罪意識が沸々とわいてきたという。Aさんは促されるまま思い出される罪を一つ一つ告白し、神様の前に悔い改めの祈りをした。祈り終えると、何か心に温かいものが広がっていった。「イエス様が自分の中のすべての罪を赦してくださった」と感じた。
促しはまだ続いた。「イエス・キリストの名によって罪を赦され聖められた皆さん、今度は救い主イエス・キリストのために全生涯をささげませんか。そう決心される方は、その場にぜひお立ちください」と献身を促した。気がついてみると、Aさんはその場に立っていた。「自分の意思というより、イエス様に立たせてもらった感じだった」という。
その後、Aさんは大学を卒業。学生時代に学んだ知識を生かすべく、都内の生協に就職し、配達の仕事を続けた。
だが、20代半ばを過ぎた頃、あのケズィック・コンベンションの時に表明した「献身」のことが脳裏を過った。「何らかの形で福音宣教に携わる仕事をしていきたい」と思ったAさんは生協を辞め、3年間神学校で学んだ後、文書伝道団体のいのちのことば社に就職。10年ほど営業で働いた後、2000年からクリスチャン新聞の記者として働き始めた。─

すでにお分かりのように、この「Aさん」とは、この記事を担当している記者自身のことだ。37年前、まだクリスチャンになりたての頃に初めて参加した日本ケズィック・コンベンションでの体験が、その後の記者のクリスチャン人生を導いていたとも言える。もっと言えば、あのコンベンションに参加していなかったなら今の私はなかっただろうし、今もあの当時の罪を抱えたまま人生を歩んでいたのかもしれない。あるいは主から遠く離れた人生を歩んでいたのかもしれないのだ。
ケズィックには派手さ、華やかさはない。だが、バイブル・リーディングという、静かに淡々と語られる聖書講解を通して、聴く者の心が探られ、罪意識が生じ、悔い改めと献身へと導かれる。そして救い主イエス・キリストに喜んで従っていきたいという自発的な行動へとつながっていく。それが記者の信仰生活の中にも起こっていたのだ。
またこれらの営みは、1875年にイギリスのケズィックという小さな町で始まり140年を過ぎた今日も、また1962年に日本ケズィック・コンベンションが箱根で始まり、箱根から森林公園へ、さらに日本各地で行われるようになった今でも、変わることなく踏襲されている。

参加を通してキリストの似姿に変えられる経験を

『ケズィック─その歴史と特質─』で藤田氏は、英国のケズィックの特質をこう記す。

第一に、聖書中心主義。「ある著者はこう言っている。『このコンベンションであたえられる講演を聞き、あるいはその講演を読む人々を感動させる事柄の一つは、聖書のみを彼らの真理の唯一の基準としようとする講演者の顕著な努力である』。ケズィックの講師たちの思想の中心は、神が聖書において人びとに語りかけている、われわれはそれに聴従しなければならない、という厳粛な心構えである。(中略)どのような学者であろうと、旧新約聖書は神の言葉であるという根本的基盤を明確にして、この神の言葉との出会いを経験するのがケズィックであることを認めて、ここでは誰でも謙虚になっている」
第二に、御霊による維新。「ケズィック・コンベンションに出席する者は、誰でも、そのままでいるということはあり得ない、と言われている。(中略)キリスト者でありながら、無力なみじめな存在と生活を続けているありさまに覚醒を与える機会となるのがケズィックであり、覚醒のみならず、福音の勝利を受ける機会となるのがケズィックである。ここにケズィックの第二の特質がある」

第三に、静かな献身。「ケズィック・コンベンションは、明らかに『罪』について語る。これを語ることなくして、自由・平安・新生・聖化等を語ることをしない。クリスチャンにとっても、伝道・牧会者にとっても、『罪』の事実は重大なことであることを、ケズィックは容赦なく認めさせる。(中略)以上の徹底した罪認識のあとで、悔改めと献身が生起するのである。悔改めは徹底した服従であり、献身は徹底した服従の行動である」
第四に、聖霊による謙遜。「明白なことは、ケズィックにあっては、徹底的に、神の権威、キリストの福音、聖霊のたすけが全体を支配し、人間は人間に過ぎない事実を知って、悔改めと従順の中に新しい生命を期待しているということである。それは聖書的真理そのものに生きることにほかならないが、ケズィックではそれをはっきりとさせる」
第五に、明確なキリスト信仰。「ケズィックの説教者たちには、共通して『あざやかにキリスト・イエスが生きている』と言いたい。そして、そのキリスト・イエスに対しての彼らの態度は、初めから終わりまで充実している。一部のスキも乱れもない。そして、キリスト・イエスもまた、いかに密接にこの人びとと結びついておられることであろう」
第六に、純性・霊性・特性。「ケズィック・コンベンションの天幕の素朴性は、実に、福音の鮮明さを強く示しているといってよいだろう。ケズィックのすべての説教は明瞭・直載である。ケズィックの説く教義は人工的複雑さをもっていない。ややこしい神学的または哲学的用語をつかってごてごてとねりまわす知識の誇りは誰の口からも出てこない。人々は単純に福音を語っている。(中略)彼らは、神の前に徹底的なへりくだりが何かをよくわきまえ、これを実行し、上よりの恩寵の新しさに常に生きようとしており、そのように生きている。神学論争にふけるよりも、聖書の権威を重視して、神の言と聖霊に身を委ねている。そのために聖霊による罪の悔改めと聖化が重大な課題になっている。かれらのスピリチュアリティとはこういうところにある」

このような特質は、日本ケズィック・コンベンションにも確かに受け継がれている。記者もまた、その特質を体験した一人だ。
日本では、ケズィック講師としてボブ・ピアス氏、ポーロ・リース氏、アラン・レッドパス氏、ジョージ・ダンカン氏などが初期の頃を担い、次の時期をレイモンド・ブラウン氏、スティーブン・オルフォード氏、ロバート・エイメス氏などが担ってきた。2020年はジョン・オズワルト氏が聖会の説教、ジョン・リスブリッジャー氏がバイブル・リーディングを担当する。
だが時代、場所が変わったとしても、罪が示され、悔い改めと献身に導かれるメッセージは変わらない。来年もまた、記者が経験したような内的変革が参加者一人ひとりの中で起こることだろう。さらに慈愛に満ちたイエス・キリストとの親密な関係へと導かれ、キリストの似姿に変えられるだろう。そんな経験を、ぜひ一人でも多くの人に体験していただきたい。

 

ケズィック・コンベンションって何?

「ケズィック・コンベンションって何?」という疑問をお持ちの方がいらっしゃるでしょう。かつてのわたしもそうでした。勇気を出して、一人で、恐る恐る参加したときの感激は、今でもわたしの脳裏に焼き付いています。
バイブル・リーディングと呼ばれる講解説教をはじめとして、主講師が語られる御言葉の解き明かしは、神学的にしっかり裏付けされた、同時に霊的な、それまで聞いたことのないような深く、実際的なものでした。イギリスやアメリカ、ときにはインドやオーストラリアなどの英語圏からお招きする説教者と共に、近年では教派や神学・伝統の枠を超えた日本人説教者も招かれています。
ケズィックのモットーは、「みなキリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ3:28)です。このみ言葉の通り、教派の違いは意識されません。森林公園の会場で渡される名札には、教派や教会の名前は書かれていません。個人のお名前とどの都道府県(国)からいらっしゃったかだけが、表示されています。
イギリスの湖水地方にあるケズィックという町で始まったこの運動は、世界の各地に広がっています。日本でも「日本ケズィック・コンベンション」(埼玉県・森林公園)のほか、沖縄、九州、大阪(京都、奈良、神戸各地区を含む)、東京、東北(山形地区を含む)、北海道の各地で開催されます。
来る2020年2月、あなたもケズィックに参加して、御言葉の豊かさに触れ、聖なる主のご臨在の前であなたの信仰生活を整えていただきませんか。

東京委員会委員 中央委員会出版担当 大井満