「ドルト信条」めぐるカルヴィニズムとアルミニウス主義の対話 圧倒的な「救い」が出発点となる

 「予定論」をめぐって袂(たもと)を分かった「ドルトレヒト信仰規準」(以下「ドルト信条」)と「アルミニウス主義」。2019年が「ドルト信条」成立から400周年を迎えたのを機に、双方の流れを汲む2者が対話をした。ドルト信条の翻訳と研究書の業績がある牧田吉和氏(改革派・宿毛教会牧師) とアルミニウス主義を継承するウェスレアンの立場の藤本満氏(インマヌエル高津キリスト教会牧師)。このような対話は、世界的にもめずらしい(「福音の慰めを考える─ドルトレヒト信仰規準400周年記念集会─」[OCC宣教部・お茶の水神学研究会主催]=11月29日、東京・千代田区のお茶の水クリスチャンセンターから。2019年12月22・29日号で一部既報)。

 

 第一部の牧田氏の講演「敬虔な魂の慰めのために−ドルトレヒト信仰規準の『予定論』の心−」に続き、第二部のシンポジウムでは、藤本氏と牧田氏がそれぞれ発題した。

◯神の働きかけは自由意志に先行

 藤本氏は冒頭、ボンヘッファーに触れて、「私たちはそれぞれ自らの信仰に確信を持っているが、それを互いにぶつけ合うことによって、公同の教会とは一体どういうものなのかという全体像を、歴史認識とともに育てていかないといけない。そうでなければ、所詮私たちは歴史から何も学べない。貢献もできないし、反省もできない」と今回の対話の意義を確認。「アルミニウスとウェスレー 神学的系譜」と題して次の点を語った。

 アルミニウスとウェスレーの救済論は、200年前後の隔たりをへて、その接点の希薄さにもかかわらず、同じ系譜に位置付けられる。アルミニウスは「神の像」として創造された人間には、神の命に従うか背くかを選択する「自由意志」があると考え、全的に堕落した人間に神は「呼びかける」とした。ウェスレーにとっても、神の像に創造された人間にとって「自由」は本質的な要素であるとともに、その人間に神が「先行的」「主導的」に働きかけ、それへの人間の「応答」で救いの「全体」が展開されていく。

 ウェスレーの予定論は、アルミニウス同様、圧倒的な「神の摂理と統治」のもとに位置付けられるが、それを「神の主権」ではなく「神の愛」と結びつける。救いと滅びの二つの道が定められており、神の働きかけに応答する人間の主体性を排除せず、救いの完成を目指す。両者はともに、すべの人に救いは提供されているとしたが、二人の背景は異なる。アルミニウスは「堕落前予定論」に立つ改革派神学に疑義を呈したのに対し、ウェスレーは数千人の人が救われるリバイバルの最中でそう呼びかけた。・・・・・・・・

◯聖霊論に対話の空間がある

 牧田氏は「アルミニアンとの神学的対話を求めて」と題して、次のように語った。

 論争の中心的問題は予定論であったことは事実だが、神の主権性と人間の自由意志の問題で議論するならば、どちらを重要視するかという議論になり生産的でない。そうではなく、歴史の事実、救済の事実から考えるときに、両方の積極的な対話というものが成り立つ。それは「信仰の論理」の問題であり、救いにおける神の恩恵性の全面的な告白であって、その究極的な根拠として、神の選びの告白に至る。

 そこでは最終的には三位一体論が問題になる。その神の働きの中で、人間の救済を考える。そこで問題になるのは、人間の全的堕落。ウェスレーは同時に「先行的恩恵」についても厳しく語り、一方で人間の自由意思を確保するために、その恩恵の不可抗性をも否定する。ドルト信条も、信仰の付与において人間の意志や性質を奪い去らないことを強調する。カルヴィニストもウェスレアン・アルミニアンも救いにおける神の全面的恵みを告白する。その三位一体の神を共通の基盤にするとき、とりわけ聖霊論の局面で、両者の対話の空間が見える。・・・・・・

 神の主導にどう応答するか
 聖化は社会、世界に広がる

 それぞれの発題を受けて、応答があった。

 藤本氏は「ウェスレーにしても、義とされる瞬間に関しては圧倒的に神の問題。彼が人の応答性を強調していくのは、救われた後の話。それは神様が備えてくださった恵みの手段をどう用いるか、・・・・・

牧田氏は「救われた後の、聖化の問題と言っていいだろう。聖化という点は、ウェスレアンも改革派も共通している。そしてウェスレーの聖化論は個人的なものではない。社会的な広がりを持っている。・・・・・・(2020年2月9日号7面に掲載)