天皇制の持つ宗教性と危険性 バアル崇拝との類似性を指摘 同盟基督 2・11信教の自由セミナーで津村氏

日本同盟基督教団は、「教会と国家」委員会主催による「2・11信教の自由セミナー」を都内の中野教会を会場に開催した。講師は聖書宣教会・聖書神学舎教師の津村俊夫氏。「天皇制という宗教のある国で、キリスト者として生きる〜キリストの仮面をかぶった日本教にならないために〜」の講演題で、天皇制の持つ宗教性とその危険性を、イスラエルが直面したバアル崇拝との類似性を指摘しながら論じた。
戦前・戦中の教会が、「神社参拝は宗教ではなく、国民儀礼だ」として偶像礼拝を受け入れ、強要した歴史を考える時、「宗教としての天皇制」という理解が大事である。天皇は、「大祭司」として日常的に宗教祭祀を行っている。宮中では、賢所でアマテラス大御神(太陽女神)が祀られ、神殿で自然崇拝(八百万の神)、皇霊殿で先祖崇拝(祖霊崇拝)が行われる。天皇自らが行う年祭は年に25回くらい、月例祭が月に3回、そして毎日一日の休みもなく、三神殿に供物が供えられ、当直の侍従が天皇に代わって拝礼する。大嘗祭は天皇が即位後最初に行う新嘗祭である。この儀礼で、天皇は皇祖アマテラス大御神と「ご一体になり」、「神化」する。これは天皇が大祭司としての役割を果たすために必要な儀式である。
カナンにおいても、先祖崇拝は最も重要なものとされた。弔いの儀礼では酒宴、神との共食が行われ、旧約聖書はこれに警告する(アモス書6章7節など)。祖先崇拝はアジアだけのことではない。そして太陽神は死霊を冥界に連れて行ったり、連れ帰ったりする。大嘗祭は日没後、夜明け前に行われた。太陽崇拝は祖先崇拝と密接な関係を持っていた。しかし聖書は、太陽をあくまでも被造物として描き、霊を生き返らせるのは「主の教え」(詩篇19篇)であるとする。
偶像崇拝とは、見えない神を可視化すること。ヤハウェを礼拝するために「金の子牛」をアロンは民に求められて作った。しかし、子牛の像はバアルの像である。ヤロブアムは二つの「金の子牛」を作ってベテルとダンに据えて、民に「もうエルサレムに上る必要はない」と言った(Ⅰ列王12・28)。彼らはその像でヤハウェを礼拝しているつもりでも、バアルを礼拝していることになっていた。それはヤハウェの仮面を被ったバアル宗教である。そのことに気づいていない。像によって肉の目で「見える」ことになったために、霊の目で「見ることができなくなった」。
十戒の第二戒を破ることは第一戒を破ること。アモスは「善を求めよ。悪を求めるな」と言って、善意で作った偶像や、間違った伝統にすがりつくな、と戒めている(5章)。
カナンでも、ローマでも、現代の日本でも、教会は本質的に同じ信仰的問題に直面している。死者儀礼が日常化する国にあって、宗教性を持つ天皇制による国民統合は「信教の自由」を侵害する。私たちも、聖書の神がご自身をどのように啓示されているのかを、聖書から学び続けなければいけない。【髙橋昌彦】