東日本大震災国際神学シンポジウム応答③ 「『苦難にどう向き合うか:旧約聖書から』へのレスポンス」 東京基督教大学教授 ランドル・ショート

 2月3日に行われた「第6回東日本大震災国際神学シンポジウム」(主催=OCC・災害救援キリスト者連絡会、東京基督教大学、青山学院宗教センター、キリスト者学生会、学生キリスト友愛会、共催=フラー神学大学院)では、フラー神学大学院旧約聖書主任教授のレスリー・アレン氏の主題講演「苦難にどう向き合うか:旧約聖書から」(2月16日号で既報)を受けて、応答が行われた。東京基督教大学教授のランドル・ショート氏による応答講演を抄録する。

 共同体としての教会の課題

 アレン氏は次のように語る。信仰者も教会も、「順境」の時があり、「逆境」の時があり、そこからの「回復」の時がある。詩篇はそれらの三つの異なる状況を前提に書かれており、その御言葉がどの時について語っているかを知り、その置かれている時に合わせて語るとき、私たちは聖書からふさわしいメッセージを汲み取ることができる、と。しかし、このことは現代の公の礼拝において、どれだけ可能であろうか。

 ほとんどの詩篇や哀歌は、当時のその典礼に参加している共同体の一人ひとりが同じ思いでいる、同じ「時」にいる、ということを前提としている。それは旧約時代の人々が「父の家」という社会的構造の共同体の中で同じ体験をし、多少の個人差はあったとしても、その成員が置かれている「時」は基本的に同じであり、彼らにとって詩篇と自らの状況を適応させることは自然と可能であったということである。

 しかし今日、特に都市部では、同じ教会に集っている者同士でも日曜日以外のそれぞれの生活領域はバラバラで、共通の体験など非常に希薄である。むしろ、学校、職場、ボランティア、オンラインコミュニティーなど、重なり合うことのない複数の領域で、それぞれのアイデンティティーを形成している。

 このことは、現代の教会が、公の礼拝において、共同体として共通の「時」に対処することの困難さと、日曜日以外に接点がなく、複数のアイデンティティーの中で悩む人たちのニーズに十分答えられていないこと、この二つの問題を示唆していると思われる。

「苦難」をいかに捉えるか

 アレン氏が分類する、詩篇の中の「逆境」の祈りにおける、三つの苦難への応答について考えたい。

 第一は、苦難の原因が、人間の罪でも神の摂理でもなく外部からきており、自らの潔白を訴えることで、神の介入を迫るものである。

3月22日号に全文掲載