5月10日号紙面:『LGBTと聖書の福音』書評水谷潔 「当事者不在」の議論から「当事者を愛する」歩みへ
この度、いのちのことば社からLGBTをテーマにした書籍が出版された。これは画期的な出来事と言えるだろう。著者はアメリカの福音派教会とゲイコミュニティーに橋渡しをしてきた人物である。
最初に念を押しておきたい。本著には大方の読者が期待するであろう「福音派としての正解」も「従来の見解の正しさに対するお墨付き」もない。何より「同性間の性的結合は罪である」との見解はどこにも記されていない。
そのためだろう。同著はアメリカのキリスト教会では賛否両論を巻き起こした。日本でも同様のことが予想される。
それだけに、本著が正しく読まれ、不要な反発や的外れな批判が避けられたらと願っている。そのために「訳者あとがき」を本文より先に読むことをお勧めする。そこに記されたLGBT関連用語とアメリカ社会の文脈、そして著者の背景の理解は、日本の読者には不可欠と思われる。
著者が見せてくれるものは、「交通標識」ではなく、「橋」である。聖書倫理上の正解という道ではなく、福音派教会からゲイコミュニティーに向かって架けられた橋を著者は示す。論考よりは、宣教報告と言える内容である。
もちろん、神学的考察は含まれているが、それは「当事者不在の神学」ではなく「当事者を愛する現場から生みされた神学」である。さらに、それは今後、日本の福音派が課せられていく神学的営みを示唆しているとも言えよう。
日本の諸教会にも同性愛傾向を持つ方々は、一定数存在する。いないように思えるのは、認識されていないだけである。評者自身も当事者や関係者から、過去に百例以上相談を受けてきた。ぜひとも、この「見えざる現実」に立って、本著を読んでいただきたい。そして、記されているアメリカでの幾多の事例から、日本でも発せられている「声なき呻(うめ)き」を想像していただきたい。
「まえがき」のインパクトは絶大だ。さらに、本文へと読み進める中、読者は、クリスチャンである自身に潜んでいた偏見や差別意識を示されるだろう。悔い改めるべきは、当事者や支持者の側だろうかと考え始めるだろう。
近年は、一般社会同様、キリスト教会でもカミングアウトが珍しくなくなっている。LGBTの方が求道者として教会を訪ねるケースもよく聞くようになった。
だからこそ、それに備えて本著を読んでいただきたい。実際に当事者と接したとき、カミングアウトを真摯に受け止め、愛を示し、信頼関係を築くための具体的な知恵や聖書的な示唆を本著から学び、備えて欲しいと願う。
LGBTの方々は、クリスチャンたちが「それは罪か否か?」の議論をするための「標本」ではない。神が愛しておられる尊い人格であり、私たちが愛し仕えるべき「隣人」なのだ。読者の多くは、この見失いがちな視点を示されることだろう。
評者は「同性愛傾向自体は罪ではないが、同性間の性的結合は罪である」との見解を持っている。たとい、それが正しいとしても、「愛」がないならば、パウロが記す通り「何の役にも立たない」ことを、幾度となく経験してきた。
“Love is an Orientation”これが本著の原題である。愛こそがクリスチャンの指向性との思いが込められているようだ。LGBTについて考え、論じる時、私たちは、何を指向しているだろう? 当事者への嫌悪や断罪、同性婚支持派教会への敵対や論争だろうか?それとも隣人である当事者への愛だろうか?
本書出版を機に「当事者不在の議論」はやめにしよう。どのような見解に立つにしろ、「当事者への愛を指向する歩み」を始めたい。
『LGBTと聖書の福音 それは罪か、選択の自由か』
アンドリュー・マーリン 著、岡谷和作訳、いのちのことば社、四六判