環境と教会を考える② 環境に関心もてない理由 “創造の季節”を生活に

聖書と祈りを土台に、環境問題への警鐘を鳴らす全世界規模のキャンペーン「創造の季節」(Se
ason of Creation、https://seasonofcreation.org/)が9月1日から10月4日まで実施される。環境意識や持続可能性のテーマに日本の教会でどのように取り組めるか。連載で考える。今回、次回は山口希生氏(日本同盟基督教団中原キリスト教会牧師)が聖書の観点から寄稿する。

環境問題に取り組むべき、聖書的土台(その1)         
山口希生(日本同盟基督教団中原キリスト教会牧師)

1環境問題と終末論

地球温暖化の問題は、今やすべての人が目を背けることのできない問題となっています。今年の日本の6月は、コロナ問題でマスク着用が求められる中、真夏並みの暑さの日が続き、難儀された方も多かったでしょう。 私がこの原稿を書いているのはまだ梅雨の最中ですが、この時期にこんなに暑いのならば、夏の盛りはいったいどうなってしまうのか? と不安を覚えられた方もたくさんおられたと思います。キリスト者であろうとなかろうと、環境問題、特に温暖化問題は人類全体が一致して取り組むべき問題であるのは明らかです。
しかし、「キリスト者であろうとなかろうと」というくだりが少し気になるという方もおられるかもしれません。環境問題がキリスト者でない人も等しく取り組むべきものだということは、聖書を読まない人にとっても環境問題は重要だということです。
そこで、聖書を人生の指針にしているキリスト者にとっては、聖書そのものがキリスト者に環境問題に取り組むように強く促している、という確信が欲しいところです。
けれども、聖書を読んでいくと、むしろ環境問題に積極的に係わるインセンティブを失わせてしまうような箇所に出くわすことも少なくありません。たとえばペテロの第二の手紙の次のような一節です。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(3・10)

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(3・12)

ここで言われている「主の日」や「神の日」とは、イエス・キリストが再びこの地上世界に来られること、すなわち再臨の日のことです。キリスト者は、再臨の日を待ち望み、その到来を早めるようにと命じられています。
しかし、その日には天の万象(別訳は「自然界の構成要素」)は焼き尽くされてしまうのです。ありていに言えば、キリストの再臨を待ち望む、早めるとは、自然界が焼き尽くされる日が来るのを早めるということになってしまうのではないでしょうか。
このように言うのは極端すぎる、非常識だ、という反論もあるでしょう。しかし、過去においてキリスト教が環境問題にあまり関心を示さなかった理由の一つが、こうした聖書的終末観にあったのも否定できない事実なのです。ここで「聖書的」というところに傍点をふったのは、果たしてこのような終末観が本当に聖書的だと言えるのかどうか、改めて考えてみたいからです。紙幅の都合で、あまり詳細な聖書釈義に踏み込むことはできませんが、いくつかの重要な聖句を注意深く見ていく必要があります。
先に引用したペテロの第二の手紙以上に、地球の終わりについて詳細に描いていると考えられてきたのが新約聖書最後の書、ヨハネ黙示録です。 第七の御使いが最後の災い、七つ目の鉢を地上にぶちまけると、史上最悪の大地震で都市は壊滅し、また1タラントの雹(ひょう)が天から降ってくると預言されています(16章)。 人類史上最悪の地震の一つを経験した日本に住む人々にとっては、非常にリアリティーのある預言ではないでしょうか。また、先頃も中国でとんでもない大きさの雹が降ったという報道がなされましたが、これなども黙示録の預言が真に迫って来ることの一つかもしれません。しかし、ヨハネ黙示録は地球の終わりを予告した書なのでしょうか? 次回は、このヨハネ黙示録を足掛かりにして、聖書の展望する「終末」とは一体何であるのかを考えてみたいと思います。(つづく)