N・T・ライト義認論に対する改革派的調停案③ 宗教改革の過ちを正す?

2010年に米国ホイートン大学での神学会議で行われた、トリニティ神学大学教授ケヴィン・ヴァンフーザー氏の講演の要約、解説。同大学修士課程在学中の岡谷和作氏による。

(2.前進への道?「キリストとの結合」つづき)

前回は、カルバンの「キリストとの結合」の理解とライトの義認論には共通点があり、「キリストとの結合」のテーマが新旧の義認論が出会う土台となるというヴァンフーザーの提案を紹介しました。
「キリストとの結合」と「義認」とのつながりを考察するために、まず義認とはどのような行為なのか整理する必要があります。ヴァンフーザーは、義認とは言葉による行為(スピーチ・アクト*1 )であり、ジョン・パイパーが指摘するように単に現状を「説明」するのではなく罪赦された身分を「創造」する行為であるとします(*2) (例:結婚式における「二人は夫婦である」との宣言等)。
しかし、ライトも同様に義認とは「無罪宣言がなされた被告人の身分を創造する」ことであると述べています(*3)。  では従来ウェストミンスター小教理問答等において告白されてきた、キリストの義の転嫁を通して「罪赦される」ことが義認であるという理解(*4) と、ライトの「被告人の身分を創造する」という理解は何が異なるのでしょうか。それは「義と認める」舞台となる法廷が刑事裁判なのか民事裁判なのかという違いに例えられます。神が全人類を有罪と定める刑事裁判(従来の視点)において義と認められる(無罪とされる)ことなのか、それとも誰が神の共同体のメンバーなのかを決める民事裁判(ライトの視点)において義と認められる(共同体の一員と認められる)ことなのかという違いです。
この二つの法廷のイメージは、救いの垂直的側面(神―個人)と水平的側面(共同体)を表しており、本来相反するものではありません、、、、、、、、

2020年12月6日号掲載記事