「東日本大震災から10年」へ まず“私”から記憶を問い直す 「私の3.11」~10年目の証し

【東日本大震災振り返りシート】

○地震発生時、どこにいて、どのような思いをしましたか
○揺れが収まってから、まず何を思い、どのような行動をしましたか
○教会の人々や周囲の状況、被害報道を知り、どのように思いましたか
○どのように避難し、過ごしましたか
○どのように救援に導かれ、働きを続けましたか
○どのような祈りを思い出しますか
○どのような聖書の言葉を思い出しますか
○どのように礼拝をしましたか
○震災について何を覚えておきたいですか
○これからの世代に伝えたいことは何ですか

「体験」から「証言」の時代に

「あなたは東日本大震災発生時、どこにいて、何を思いましたか…」。
東日本大震災10年を迎える2021年の本特集に向けて、3組4人にインタビューをした。今後も人物を追加し、3月まで連載で証しを紹介する予定だ。事前に右表のような質問リストを送り、それぞれに東日本大震災を振り返ってもらった。記者自身にとってもそうだったが、10年前を振り返るのは、震災が過去のものとなり、日常が進む現実の中で、エネルギーのいる作業だった。鮮烈な体験であっても「忘却」が迫っている。今回取材した4人も次のような感想を述べていた。

 ―10年前を振り返ってどう思いましたか


マイカ 昨日も、当時の写真を見返したが、顔は分かってもなかなか名前が分からないんです。支援員の人だったかな、ボランティアの人だったかな、と。当時の何人かとは連絡が取れる状態にあるけれども、今どうしているか分からない人もいます。(2020年12月1日Zoomで)

高橋夫妻  まず、こういう企画を考えていただいたことを本当に有り難く思います。震災から10年近く経ちますと、周囲の方々も自分自身も意識が薄くなってきますので。自分なりにこの10年間の歩みを振り返ってみますと、その根底には「原発事故」という未曽有の災難をくぐり抜けてきた大熊町(福島県双葉郡)の方々に対する畏敬の念のようなものがあったのだなということを思います。(同12月10日Zoomで)

嶺岸 震災後7、8年まで忙しく、次々と連絡が来るボランティアの方々に対応し、夢中で走っていました。振り返る暇はありませんでした。2015年に会堂が建ち、そのあと落ち着いてきたかなと思います。(同12月16日電話で)

震災の記憶に向き合う

東日本大震災から10年を目前として、震災の記憶すら吹き飛んでしまうような全世界同時災害「感染症パンデミック」に2020年は見舞われた。各地の追悼集会は中止または大幅な縮小を余儀なくされ、21年もその影響が続く。
福島第一原発の廃炉、放射性廃棄物処理、移住、帰還、一人ひとりの心の傷…現在進行形の問題は多くある。その一方で10年という年月は、「忘却」と向き合わざるを得ない時間の長さでもある。「被災地」と呼ばれた場所でも日常が流れる。震災時先頭に立っていたリーダーたちも世代交代を始めている。現在の小学生、つまり教会学校に集うような年齢の子どもたちは、直接に東日本大震災を体験していない。教会でもあえて「証言」の機会を設けなくては、記憶が共有されない。これからは「継承」がキーワードとなってくる。

「歴史」を「記憶」で補う

各地に行政などによる「伝承館」や記念施設が次々に建てられた。震災の記憶を継承する貴重な場だが、そこで伝えられる記憶は一部であり、一定の方向づけがある。聖書的世界観、歴史観をもつ教会、キリスト者は何を伝えるべきか。
戦争体験の語られ方がヒントになる。歴史学者の成田龍一教授は、「体験」「証言」「記憶」の三つで説明する。出来事を共有できる人が多い時代(成田教授によると1945~70年)は、「体験」の比重が大きい。体験共有者が減少(70~95年)すると、特定の場面や目的のために整理された「証言」が語られる。共有者がほとんどいなくなる(95年~)と後代に「記憶」として受け止められる。ここで問題となるのは、「証言」の時代に入ると、歴史観の抗争が起きてくるという指摘だ(『「戦後」はいかに語られるか』河出書房新社、2016参照)。
戦後75年を迎えた2020年。戦後のキリスト教会をけん引した何人ものリーダーが天に召された。戦争の記憶のみならず、戦後の福音宣教の記憶も遠ざかる。今後諸教会の「一致」や「協力」にかかわる課題だ。
東日本大震災10年は、まだ「体験」の時代と言える。初期の高揚感はないかもしれないが、震災に始まった活動はこれからも続く。しかし、今後「証言」の時代に向かい、震災が「歴史」となるとすれば、今のうちに一人ひとりの体験への向き合い方を考えておきたい。
「記憶」と「歴史」を論じた『記憶が語りはじめる』(キャロル・グラック監、冨山 一郎編、東京大学出版会、2006)に注目しよう。歴史学者たちの議論の中で、「記憶」は主観的、情動的なものだが、権威によってつくられた「歴史」の在り方を揺るがすもの、として語られた。
個人の記憶はそのままでは「歴史」にならない。記憶は放っておけば継承されずに忘却される。記憶を共同体の中で何らかの形で統合し、はじめて「歴史」として伝承できるものとなる。だがいったん「歴史」となったときに、個人の感情や具体的なエピソードといったものはこぼれ落ちる。
キリスト者の観点では、一人ひとりの証しこそが歴史を補うものとなるだろう。今後宣教を継続するには、体験を共有した者同士だけではなく、体験を共有しない者たちともいっしょに働く必要がある。そのためには、まず体験した者たちが、自らの記憶に向き合う必要があるだろう。そのことを通して、「私」の証しが「私たち」の証しとなることを期待したい。
今回話を聞いた1人目は、ジェント・マイカさん(JECA・つがる福音キリスト教会牧師)。2012~13年に3・11いわて教会ネットの現地スタッフとして岩手県沿岸の働きに従事した。2組目は高橋拓男・由佳牧師夫妻(ミッション東北会津聖書教会)。福島県西部の会津若松市を拠点に、福島県沿岸部から避難してきた人々とかかわってきた。拓男さんは牧師、由佳さんは支援者としてかかわり、結婚に導かれた。3人目は嶺岸浩さん(保守バプ・気仙沼第一聖書バプテスト教会牧師)。津波で会堂、牧師館を流されたが、国内外のボランティアの助けを受け、地域の支援活動を展開した。

東日本大震災発生直後

2011年3月11日午後2時46分、嶺岸さんは宮城県気仙沼市の教会の牧師室にいた。会堂は08年に献堂したばかり。扉を一枚隔てて牧師館だ。「私はその時に、これまでに感じたことのない大きな地震だと思わされ、第一感はすぐに逃げるべきだと示された」と語る。
「揺れが収まり、見てみると教会の中も家も物が倒れ散乱していました」。
漁港で知られる気仙沼市。教会から海までは近い。嶺岸さんは一度海の方を見たが、まだ平穏だった。妻と娘、飼っていた猫一匹を連れて車に乗り込み、高台へ急いだ。
高橋拓男さんは、当時神学校を卒業し、福島市の教会でインターンをしていた。震災当日は、トラクト配布後アパート2階の自室にいて、トイレに入ったところだった。「当時は『地震の時は柱が密接しているトイレが安全』と聞いていたが、揺れが大きく、これはまずい、と思って玄関に飛び出しました」
外の風景も異様だった。玄関前に積んでいたタイヤは階段下に転げ落ち、駐車場の車は「おもちゃのようにバウンドしていた」。階段を下りることもできず手すりにしがみついていた。
揺れが収まり部屋に戻ると、本棚が倒れ、飲みかけのコーヒーの香りがただよっていた。「えらいことになった。想像を超える事態だ」と思った。
埼玉県で保育士をしていた由佳さんは、ちょうど子どもたちと避難訓練の最中だった。「関東だったが初めて体験するような大きな揺れだった。震度5くらいの揺れがあった。子どもたちは訓練のまま、机の下に避難するという状態でした」と振り返る。
マイカさんは、青森県で牧会する宣教師の家庭で育った。ただ震災当時は米国の神学校に在学していた。春休みで、米国内の叔父の所に遊びに行こうと朝早く空港にいた。飛行機を待ってロビーでテレビを見ていると、日本のニュースが流れていた。「また地震や津波か」。震源地は青森からは遠いようだった。 深刻には考えず、飛行機に乗り込んだ。(つづく