【連載】避難生活から支援へ 私の3.11~10年目の証し③

【東日本大震災振り返りシート】
○地震発生時、どこにいて、何を思いましたか
○揺れが収まってから、まず何を思い、どのような行動をしましたか
○教会の人々や周囲の状況、被害報道を知り、どのように思いましたか

▷どのように避難し、過ごしましたか

 

○どのように救援に導かれ、働きを続けましたか
○どのような祈りを思い出しますか
○どのような聖書の言葉を思い出しますか

▷どのように礼拝をしましたか

○震災について何を覚えておきたいですか
○これからの世代に伝えたいことは何ですか

「あなたは東日本大震災発生時、どこにいて、何を思いましたか…」。東日本大震災10年を迎える2021年、震災の体験や記憶の継承をテーマに、3組4人にインタビューをした3回目。今回は、避難生活とその後。【高橋良知】
◇  ◆  ◇
福島市の福島聖書教会に信徒らとともに避難していた高橋拓男さん(現ミッション東北会津聖書教会牧師)は、ひたすらテレビのニュースを見て、津波の状況などをぼう然と眺めていた。だが、さらなる衝撃が走った。福島第一原発事故の映像だ。「『あ、福島は終わったな』と感じた。福島県は『うつくしまふくしま』と自然の美しさをアピールしてきたが、『全てが汚されてしまった・・』と絶望した」。放射能への予備知識もないまま、雨の中で、給水所やスーパーに買い出しで並んでいたことも思い出す。
3月13日の日曜礼拝後、仙台市の実家に帰った。買い出しに行ったスーパーは店舗が一部損傷していたが、駐車場で販売をしてくれた。家は停電していたが、2日後に電気が復旧し、その有り難みを実感した。
それを機に福島へ戻った。「その時、『福島へ帰りたい』という思いと、『(原発事故のあった)福島へ戻りたくない』という思いが入り交じっていたのを思い出します」
福島に戻ると、当時無牧だった会津聖書教会への異動が決まった。沿岸のいわき市から避難した家族がいたためだ。原発から離れた県内西部への異動は、若い高橋さんへの配慮もあった。東京に進学予定の大学生を連れて車で会津若松市に向かった。「営業マン時代は会津エリアを担当し、端から端まで頭の中に入っていた。まさか自分が住むようになるとは思っていませんでした」
夕方、会津若松市に入ると、ラーメン屋の灯りがともっていた。「久しぶりに普通に生活している風景を見て、ホッとしました」。会津は地震による物的被害は少なく、教会も内部の物品が落ちた程度だったという。
「まずは礼拝から始めた。自分自身、何が起きているのか、何をすればいいのか分からなかった。あまり細かい記憶がない。とにかくまずは生活を落ち着けようとしていた」と振り返った。
半年ほど経ち、生活に慣れたころ、仮設住宅を訪ねた。「当時数千人が震災・原発事故のために会津へ避難してきていた。『とんでもないことになった。何かできることがないか』と思いつつも、神学校を卒業したばかりで、人脈があるわけでなく、教会も大きくない。何をすればいいだろうか」と考え始めた。
宮城県気仙沼市の嶺岸浩さん(保守バプ・気仙沼第一聖書バプテスト教会牧師)は、3月13日は3人で祈りを中心とした礼拝をして、その後に高齢の父が一人暮らししていた多賀城市を訪ねた。20日は塩釜聖書バプテスト教会の礼拝に出席した。東京から支援に駆けつけた人たちもいた。「娘が4月から東京での就職が決まっていたので、急きょ、支援に来ていた人たちといっしょに東京に行きました」。東京のある教会で証しをすると、次々と支援の連絡が来るようになった。
米国にいたジェント・マイカさん(JECA・つがる福音キリスト教会牧師)は青森県にいる家族と連絡がとれないまま、ひたすら情報を集めた。「当時は海外への情報網が途絶えたようで、外国からは親戚すら連絡が取れない状況でした」
5日ほどして、フェイスブックの発信で両親の無事を確認した。震災後2日間停電していたという。「後に被災地支援に行っても、どうしても被災の感覚は共感できない。しかし逆にそれが強みになり、無邪気に被災の状況を聞けた部分もあった。被災した方々も『じゃあ伝えてあげよう』と思ってくれていたと思う」と振り返る。(つづく)