東日本大震災から10年を迎えます。この災害を教会、個人はどのように迎え、痛みを覚え、祈り、考え、行動したか

いのちのことば社で刊行された手記について、クリスチャン新聞の当時の記事から振り返ります。

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「その子が遊んでいる場所の周辺には、線量が高いマイクロスポットがあります。でも『そこは線量が高いから遊んじゃダメ』とは言えない。すでに除染が済んだ場所ですし、その場所全体が線量が高いわけでもない。土地の持ち主が近所の人だからこそ言いにくいのです。その子にもお母さんにも言うべきか非常に悩む」(本書46項)

「悩」。今の福島の人々の思いは、この一字で表すしかないのだろうか。そしてそれは「聴く」ところからしか見えてこない。悩み、迷い、戸惑い、不安を抱えて歩んで来た人々の声を聴くのは容易ではない。「所詮あなたに話してもこの苦悩は分からないでしょう」という思いが当事者には少なからずあるからだ。

本書は著者が『終わらないフクシマ─女性たちの声─』(2013年)に続き、「3・11」から5年を経た今の福島に生きる人々の声を丁寧に聴き、その言葉をまとめた労作だ。女性、若者、牧師、彼ら彼女ら19人の証言を聴きながらその言葉の前に圧倒される。同時にあの事故から5年を経た人々の「たくましさ」をも感じ取れるのも事実である。飯舘村からの避難を余儀なくされ、福島市内で「かーちゃんの力・プロジェクト」を立ち上げて歩んで来られた渡辺とみ子さんは言う。「『あきらめないことにしたの』と、とみ子さんは自作の詩に書いていた。悔しい思いをたくさんした、でもあきらめないことにしたの、と。」(本書28項)。

放射能をばらまいた当事者たちが何も責任を問われることなく、ただ被害だけが生活者に押しつけられる、この不条理としか言いようのない出来事の中、それでも諦めずに今日を歩み続けている彼らの姿、「悩」を心に刻みつけよう。今何事もなかったかのように「原子力ムラ」の人々は原発を再稼働させようと目論む。それは福島の「悩」をなかったことにすることだ。我々は決して忘却すべきではない。なぜなら、私たちは2千年前の出来事を忘却の彼方に押しやることなく、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているのだから。
(評・野中宏樹=日本バプテスト連盟鳥栖キリスト教会牧師)
2016年4月24日号から

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