寄稿 福音宣教の課題としての原発・放射能汚染問題 寄稿・住吉英治(日本同盟基督教団勿来キリスト福音教会牧師)

東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故に見舞われたいわき市の住吉英治(同盟基督・勿来[なこそ]キリスト福音教会牧師、1面参照)は、原発問題に警鐘を鳴らしつつ、徐々に戻りつつある双葉郡の人々のために開拓宣教に取り組んでいる。数年前から準備を進めた働きは、この4月、正式に伝道所として礼拝活動をスタートさせる。その取り組みへの思いを寄稿してもらった。

 その日―原発爆発

2011年3月11日。東日本大震災発生。マグニチュード9・0の巨大地震。12日午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発。続く2号機がメルトダウン。14日11時1分、3号機がメルトダウン。15日6時14分頃4号機水素爆発。
13日日曜日、会堂での礼拝出席者は3人だった。私が代表して一言祈り、終わった。「早く原発事故を収束させてください。私たちをお守りください。アーメン!!」。ものの1、2分であった。こんなに短い礼拝は後にも先にも初めて。1回限りであって欲しい。

原発爆発時、電気は通じており、テレビをつけた。目に飛び込んできたのは、原発爆発事故の様子だった。「福島第一原発で爆発事故が起きたようです」とのアナウンサーのうわずった声。私は一瞬何が起きたのか理解できずにいた。頭の中は真っ白。数分後「福島に原発があったんだ!」と理解した。私の住む勿来地区は第一原発から約60キロ地点だ。

時間差の中、勿来、いわき市からも蜘蛛(くも)の子を散らすように人々は避難し、2、3日後、私たちの教会の周りは夜になると真っ暗。その日以来、十字架と玄関灯の灯りをともし続けた。それは、ここに私たちはいますよと言うサインであり、希望の光としてであった。 私と妻は教会に残り続け、3月下旬あたりから支援物資が届くようになり、ボランティアも来るようになって、支援活動を始めた。今も姿形を変えて支援は継続している。

 原発事故は起こる

最初に、この記事を読んでくださる方に申し上げたい。それは「原発事故は起こる」と言うことだ。「原発事故は起こる」と受け止めておいたほうが良いのだ。
皆さんは現在日本国内に何基の原発があるかご存知だろうか。54基である。世界3位の原発大国だ。この小国にと改めて驚く。福島第一原発事故後、約2年間の全基停止を経験し、ゼロから出直すことになり、これまでに再稼働したのは9基。ここにカラクリがある。 朝日新聞は次のように伝えている。「約2年続いた『原発ゼロ』の間に、国民は原発がなくても政府や電力会社が訴えていたような深刻な電力不足による停電や経済の混乱が起きないと知った」(2021年1月17日付朝刊)。ではなぜ原発経営者や自民党・公明党政府はうそぶくのか。それは利潤の甘美さを求めてやって来る原子力村の構造だろう。

私たちは、これらの輩(やから)とその構造に鋭いメスを入れていかなければならない。国民を馬鹿にするなと言いたい。同時にこのことは、エネルギー小国の課題でもあることを覚えておきたい。原発憎しと言う問題ではない。最も近年では原発は経済的にコストがかかると言うことも周知されてきている。

これも2月28日付の朝日新聞報道である。原発事故後の3月25日の時点でのこと。国の原発委員長だった近藤駿介氏は、福島第一原発の半径250キロの範囲が移住の対象になるかも知れない…そんな『最悪シナリオ』をまとめていたと言う。

格納容器が壊れれば、大量の放射性物質が放出される。170キロ範囲は強制移住を求める可能性もあると。北は岩手、秋田まで。南は千葉、東京までを含む膨大な範囲である。もしそうなっていれば数千万人の人々に放射能汚染が襲いかかり、パニックどころか、日本は半分沈没してしまったであろう。神の憐れみである。

いずれにしても、原発が近いか遠いかを問わず、原発の在り方、事故が起こった時の対処は考えておくべきだ。これは原発事故に遭った福島県民としての、そして今も絶望と苦悩の中で喘(あえ)いでいる者の心からの要望である。福島の教訓を無駄にしてはならない。

原発は悪か善か

福島第1原発爆発後、それまで地下に隠れていたかのような一部の人の関心事であった原発の是非論が急浮上してきた。いわゆる原発は悪か善かという問題である。キリスト教界においても論ぜられるようになった。ただし、原発(核)は人間が犯してはならない領域、コントロールできない世界、神の御心に反すると言うのが主な論調ではなかったかと思う。

私はこう考える。原発は悪だという人に、それは人間が罪を犯さなければ幸せだったのに、と言う風に聞こえる。この立場に立てば、私たちは現在罪という悪が生み出した原発世界のただ中に生きている。それは罪の存在を否定できないように原発の存在を否定できないと言うことだ。

では原発は善なのか。私の結論は原発は無いほうが良いということで、ハッキリしている。こんなやっかいなものはない。ここでの視点はエネルギー全体の課題であると思う。家庭に送る電気、工場を動かす電気をどうするのか。事は単純ではない。

もう一つ。福島県でもそうだが、地域の貧しさゆえに、経済的活性化を図るために原発を導入していくという構図である。政府も電力会社もそこを突く。今回の北海道・寿都町、神恵内村の核のごみ最終処分場を巡る国の選定プロセスへの応募表明など同じ背景である。第一段階の2年の「文献調査」で、最大20億円の交付金が得られる。ここにも過疎の問題と台所逼迫(ひっぱく)の事情がある。原発の是非、善悪を論じる時、双葉郡の原発誘致地の歴史に思いを寄せる時、この是非論、善悪論はあまり意味を持たず、虚(むな)しく聞こえる。イエスさまは罪人を拒絶なさらず、その中に入り、彼らと生活を共にされ、生きられた。そこにヒントがあるように思う。

復興ではなく新生を

「復興」を元の状態に戻すという意味とするならば、福島、特に浜通り、原発がある双葉郡にはあり得ない。元通りに戻すことなど不可能である。双葉郡への現在の帰還率は2割程度である。下の富岡で言えば2月1日現在千576人、1割程度である。私は「復興」ではなく“新生”と受け止めている。それはキリストにある新生と言うことである。キリストを基とする生活の新生、町の新生、希望の新生と言うことである。

この4月4日、日曜日のイースターから、開拓を進めてきた富岡にある勿来キリスト福音教会伝道所「双葉希望キリスト教会」の礼拝を開始する予定である。この会堂は同盟基督・いわきキリスト教会員の人の持ち家だ。仮設住宅支援で出会った自治会長で大工の人に手伝ってもらい、リフォームをした。北の相馬郡の教会を兼牧しているが、いわきと相馬の間にある富岡町で修養会などもできればと思っている。

原発爆発被災地の真っただ中で「福音宣教の課題としての原発・放射能汚染問題」に取り組んでいきたい。この課題は始まったばかりである。それから帰還者を含む双葉郡住民と移住された方々の架け橋となる「虹の架け橋プロジェクト(Rainbow Bridge Project)」も動き始めた。富岡町の帰還率は低いが隣りの楢葉町の帰還率は6割になり、子どもたちもいる。帰還者のほかにも、廃炉作業関係者、お店で働く人など様々いる。このように双葉郡全体を意識して宣教を進めたい。

双葉郡に戻った人と他地域へ移住した人との情報交換もできる架け橋になりたい。宣教師や担い手が起こされるようにも祈っていきたい。
まとまらない内容であったかも知れないが、3・11を迎えて書かせていただいた。ご質問や感想をぜひお聞きしたい。共に考えていきたいと心から願う。
勿来キリスト福音教会TEL0246・62・3756