私の3.11~10年目の証し 第三部 いわきでの一週間①

本連載第三部以降は、私と当時私が出会った人たちを中心に、それぞれの「私の3・11」を振り返る。10年前とは異なる場所、異なる働きに移っている人も多い。10年の厚みを感じさせる。【高橋良知】

写真=いわき市城跡付近の坂

▼2021年1月11日

10年前に被災した場所、JRいわき駅北側の磐城平城跡地周辺を歩いた。震災後もたびたび来ているが、今回は記憶の糸をたぐるように、丹念に歩きまわった。真新しい家もあるが、震災の影響か、つぎはぎのブロック塀、空き地もあった。よく見るとあちこちに、「旧城跡急傾斜地崩壊危険区域」と表示された看板がある。「昭和61年12月25日告示」とのこと。きっと10年前も見ていたと思う。揺れが起きたとき、まず「がけ崩れが起きる」と思ったからだ。

駅の東側に出て、市役所そばにある、グローバルミッションチャペル(平キリスト福音教会)にも寄った。チャペル併設の書店平福音センターで店主の松田敏美さんが作業をしていた。思い出話をしていると、同教会員の小野泉さんも立ち寄って話が弾んだ。あっという間に時間は過ぎ、帰りの電車を数本見送った。

▼2011年3月11日

「こうしてダビデはこの要害を住まいとした。このため、これはダビデの町と呼ばれた…」。

この日のデボーション誌『マナ』の聖書個所はⅠ歴代誌11章1~9節(引用は7節、新改訳第3版)。

解説には「あなたが『今、いる』その場所-人間関係・職場・家庭・学校・地域・教会-その立ち位置は、やがて思いも寄らない祝福が与えられるための一段階です」とあった。10年たった現在、この言葉の意味をかみしめている。

当時、私は仙台の大学院生だった。卒業(修了)まぎわで、関東に引っ越していたが、卒業式(3月15日予定だった)のために数日仙台に滞在する予定だった。通常関東との行き来は、内陸部のJR東北本線か高速バスを利用していたが、ふだん使わない海沿いの常磐線を使った。関東で忙しくなる前にいわきで会いたい人たちがいたからだ。

学生時代、仙台を中心に様々な超教派の働きにかかわった。そのころ全国各地に「ユースミニストリー」「賛美ミニストリー」といった働きが立ち上がり、仙台にもプレイズ・ステーションというネットワークができていた。いわきにも、ラブ・レボリューションという働きのメンバーらが移り住んでおり、いわき勢が仙台のイベントに参加したりすることも多かった。

11日の朝、常磐線を北上した。いわき駅前で、伝道師の山本昇平さんが実施していた路傍伝道のために午後4時に待ち合わせていた。駅には12時前に着いた。いわきはあまり訪ねたことがなかったので、散策してみたいと思った。
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そのころ、いわきの乳飲料配達会社に勤めていた伝道師の五十嵐義隆さんは、浪江町の配達からいわきの事務所に戻るころだった。「途中見た東京電力福島第一原発が印象に残っている。原発事故が起き、その後、浪江の配達ルートはなくなるのですが…」
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グローバルミッションチャペルでは昼前に市内の牧師会が開かれていた。そのとき、小野さんも用事で教会にいた。五十嵐さんらの会社から委託を受けて乳飲料配達の仕事をしていた伝道師の阿部俊弥さんは、仕事を終えて、昼頃にチャペルに戻り、牧師らに飲み物を提供したり、片付けをするなどしていた。そのころ同教会牧師の森章さんは京都に出張に行っていた。
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私は昼過ぎに、小高い崖の上の城跡を回っていた。十字架を掲げた白い大きなチャペルが見えた。日本フリーメソジスト教団平キリスト教会(当時)の会堂だった。チャペルを背にして、住宅街の小道を歩いた。道の先には、見晴らしの良さそうな下り坂が見えた。
その時、足元が波打った。

「大きな横揺れで、立つのも大変な状態だった。最初はめまいがするような感じだった。ブロック塀がガタガタ揺れていた。遠くのほうでゴーゴーという地鳴りが聞こえてきた。揺れは2分ぐらいだそうだが、感覚的には5分ぐらい揺れていたように感じた」(クリスチャン新聞2011年3月27日号)。

最後は地面にしがみつくような状態だった。
揺れが収まってから、坂を下りて駅へ向かった。「家の中めちゃくちゃ」と興奮した女性の声が聞こえたが、すぐに悲鳴に変わった。余震が襲ったのだ。 (つづく)