写真=牡鹿半島荻浜にある名和晃平作「White Deer」

東日本大震災から10年。被災地が徐々に整備される中で、記憶と再生への想像力が試される。甚大な津波被害を受けた石巻市沿岸や牡鹿半島は様々なキリスト教会が支援活動をした場所でもある。この地域で石巻市などの自治体、一般社団法人APバンクが共催する総合芸術祭「リボーンアート・フェスティバル」(以下RAF)が9月26日まで開催中だ。今回のテーマ「利他と流動性」はキリスト者にも考える材料を与える。【高橋良知】

 

RAFを主催するAPバンク代表の小林武史氏は、Jポップを代表するヒットメーカーとして知られるが、近年は資本主義の在り方を問い直し、持続可能な取り組みや災害支援に力を入れる。RAFは、石巻の復興やまちづくりを担うリーダーらの思いとつながり2017年から始まった。食、美術、音楽を軸に隔年で展示を開催するほか、常設作品展示や、様々なプロジェクトを地域連携で継続してきた。

写真=雨宮作品(上)と日和山から見る復興祈念公園

RAFの「流動性」の一つには、展示会場であると同時に被災地であることがある。

石巻中心部の日和山からは復興祈念公園を見下ろせる。雨宮庸介作「石巻13分」はこの山の旧レストランが会場だ。海が見えるはずの窓にはブラインドが下ろされ薄暗い。室内に映像が投影された。

ドキュメンタリー調の映像には「石巻の風景」は登場しない。ドイツ在住の雨宮氏は、認知症の進んだ母、ドイツの仲間、自らの身体に刻む文字、などを通して石巻の痛みに接近しようと努める。最後に海と室内を隔てるブラインドが波打ち、部屋の様子は一変する…。

雨宮氏は「ただ傍観するだけではなく、石巻について、自分の大切な人についてあきらめず考え続けたい。現代美術は分かりにくいと言われるが、私たち全員が分からない未来を生きなければいけない。分からなさに向き合うことは重要な仕事だと思い取り組んでいる」と語った。

 

 多様な「利他」の議論

「利他」を巡っては、東京工業大学未来の人類研究センター(伊藤亜紗代表)の教授陣が執筆した『「利他」とは何か』(以下『何か』、集英社、2021)が参考になる。伊藤氏はコロナ禍で広がった「利他主義」は、単なる思いやりではなく、他人の感染を防ぎ、自らの感染を防ぐ「合理的」なものと指摘する。

このような合理的利他主義を推し進めたものとして、「より効果的」な支援を数字化して選択する「効果的利他主義」を挙げる。この「利他主義」には、身内に止まりがちな「共感」を越えた地球規模の問題にアプローチできる利点がある。

だが伊藤氏はこれら「合理的」な利他主義に批判的だ。むしろ「共感」や「思いやり」に立ち返るための「うつわ」や「余白」を重視する。

同じく『何か』で中島岳志氏は、「与える側ともらう側という、負い目をベースにした上下関係」が生まれる「利他」に注意を払った。また遺伝学者らの間で特に議論される「互恵的利他主義」についても「どこかで自分にかえってくるという期待をもって行為をする」という点で「利己主義の一部」と指摘した。

中島氏が「利他」の根本と考えるのは「思わず」やってしまう行為の背後にある「人間の合理的な意思の外部によって起こされる力」だ。若松英輔氏も同書で「利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない」、「作為的に動いているとき、人は『神』に十分に近づけていない」と述べる。


災害時、人々が利他的に行動することを示し、東日本大震災時に注目された『災害ユートピア』(レベッカ・ソルニット著、亜紀書房)の完訳が2020年に刊行されたことも興味深い。同書では宗教について「日々の災難をただ生き延びるだけでなく、それを落ち着いて行い、冷静さと利他主義でもって対処させる装置」であり、「毎日の宗教的実践を通して、時に災害が突然もたらす相互扶助や利他主義を教え込んでいる」と解釈する。

日々の実践に加え、災害や「利他」の記憶を再生するものとして「祝祭」を挙げる。祝祭は災害と同じように日常の「生産の線形的な時間は一時停止」し、「変形や変質を受け入れやすい」流動的な時間となるからだ。

今回のRAFでキュレーターを務めた窪田研二氏も「忘却や思考停止に対抗する手段」として祭りを評価する。「アート作品を通して多様性、平等、人類と自然の共生を夢想する。未知の世界に対する集団的な想像力を共有することが祈りにも似たRAFの本質かもしれない」と言う。

 

「新しい創造」への参与

『災害ユートピア』では、「宗教改革は、単に労働時間を長くしただけでなく、通常の時間と祭りによる中断の掛け合いを取り除いてしまった」と語る。ただし近年プロテスタント保守派の中からも芸術を再評価する動きはある。


震災直後から石巻に通う宣教師、音楽家でNPOコミュニティーアーツ東京代表のロジャー・ラウザー氏は、『砕かれた葉』(いのちのことば社、2021)で、抹茶、和紙、金継ぎなどの日本文化の中から「壊れを避けるのではなく、壊れを生かし、よりよく生まれ変わらせ」る美を引き出した。「犠牲は美の道であり、犠牲の道は十字架の道」と言う。


ラウザー氏と親交があり、9・11テロを間近で体験した米国人美術家のマコト・フジムラ氏は『つくるの神学』(”Art and Faith: A Theology of Making”Yale University Press,2021)で金継ぎに注目する。金継ぎは壊れた陶器などを金の継ぎ目で再生する。「単に“元通り”にするだけではなく、より美しくする」のだ。ここにキリストと世界の「新しい創造」の関係を見出す。

創造から「新しい創造」という聖書の全体像を語り、その過程には「痛み」や「壊れ」が伴うと述べた。その「痛み」を担うのがキリストだ。ただし「キリストが来られたのは、単に私たちを天国に連れていくためだけではなく、地上に新しい秩序をもたらすため」と言う。「つくるの神学」の核心は、「私たちは単に救済されるだけではなく、『新しさ』を共に創る者となること」と語った。

この「新しさ」には、すべての人の「つくる」行為が含まれ、「クリスチャン自身が『新しさ』を示せるし、社会において想像力を発揮する働きの中に、神にデザインされた私たちを見出せる」と言う。ここに地域の祝祭やアートにクリスチャンが参与する契機を見出せるだろう。

 

「利他」を想像する

写真=オノ作品(上)とその目の前にある旧女川町交番

RAFで今回初めて会場となった女川町は、震災後、防潮堤を建てず、海と共に生きる選択をしたまちづくりで注目を集めた。オノ・ヨーコ作「Wish Tree」は個人の願いを短冊に書く参加型の作品だ。震災遺構となっている旧女川交番の目の前にあり、祈りの場とも言える。

写真=「forgive」

牡鹿半島の旧荻浜小学校には、小林氏の楽曲「forgive」を題材にした光、音楽、織物の空間作品がある。未来の私たちや次の世界が歌われ、分断を超えるための「forgive」(許し)のメッセージがある。

 

写真=高橋作品

石巻市街地では、旧石巻ハリストス教会教会堂の横に設置されたライトが石ノ森萬画館を毎晩照らす。公募された「大切な誰か」への「光の贈り物」(高橋匡太作)であり、毎日色が変わる。

 

写真=西尾作品

旧サウナ石巻にあるキリスト像(西尾康之作「磔刑」)はラドン風呂を背景にしており、滑稽に見える。解説に「信じること」「願望」「快楽」を問いかけるとあり、皮肉もあるかもしれない。だが「指で粘土を押す軌跡のみ」という「膨大な作業」で彫られた精密な像には軽薄なものは感じない。

 「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく…ほかの人のことも顧みなさい…キリストは…ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2章3~8節)。

キリストという「利他」の手本を思いながら、「受難」を振り返り、「再生」を想像するひとときをRAFでは過ごせるだろう。

新型コロナ感染拡大を受け、夏会期と春会期(22年4~6月)に分散開催する。夏会期では23作品を展示する。

2021年9月12日号掲載記事