東北を祈る中で震災に直面 私の3.11~10年目の証し 第四部仙台での一週間①

写真=仙台福音自由教会会堂。2011年3月ころ

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。今回は震災発生前後の仙台教会の状況を振り返る。【高橋良知】

前回

いわきから関東、再び仙台へ

連載各部のリンク

第一部 3組4人にインタビュー(全8回   1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った  (全4回   3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間   (全16回 4月25日号から8月22日号)

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今年7月に芥川賞を受賞した仙台出身の石沢麻依さんは、受賞作『貝に続く場所にて』(講談社)で、

「仙台の三月は、冬と春の境界が常に揺れ続ける場所である。陽射しが和らいできても空気はしん、と冷たさを底に残したり、空気の温みがあっても空の灰色に冬の重たい気配が漂っていたりする…」

とこの時期の仙台の空気感を伝える。

「二〇一一年の三月十一日も、灰色の冬に巻き戻された日だった」

と言う。
あの日、仙台教会はどのように震災を迎えたのだろうか。

2011年3月まで

仙台市北側郊外は丘陵で、一帯に住宅地が広がっている。そのような地域の一角に仙台教会がある。県道北環状線に接して、東北自動車道などからのアクセスはいい。

1989年、日本福音自由教会40周年記念として「東北をキリストへ!」の掛け声のもと東北宣教が始まり、田耕三・真知子牧師夫妻や宣教師らが派遣された。震災が起こった年は創立20周年をこえ、開拓した古川福音自由教会(大崎市)も自立に向かい、宣教ビジョンを再確認していたころだった。3月最初の日曜には新たに「東北宣教祈り会」を始めたばかりだった。「東北の町の名前を挙げて祈っていった。そこが被災地となり、支援活動に行くことになるとは」と田牧師は振り返る。

毎年3月末に教会聖会(総会)があり、その資料の「年報」は震災前に完成していたが、その内容はその後の震災支援活動とつながっているように見えた。

11年の指針スローガンは「愛が見える教会!」。指標聖句は、旧約聖書イザヤ書58章6~12節だった。「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き…」(10節)、「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、『破れを繕う者、市街を住めるように回復する者』と呼ばれよう」(12節、以上新改訳第三版)。これらの聖句がそのまま震災支援につながっている。

12年「年報」で田牧師は「上記の御言葉を与えられましたが、それがどんなに大きな意味をもっていたかは段々と明らかにされて参りました」と振り返っている。

3月11日

この日の昼、月一回の女性向け集会「シャロンの花の集い」が開かれていた。軽食やデザートを交え、時にはゲストを呼ぶなど、初めての人も参加しやすい雰囲気の集会だ。この日はお茶会が開かれた。

昼過ぎに集会が終わり、世話人たちが片付けをして解散したころに地震が起きた。田牧師は、玄関で残っていた数人と立ち話をしていた。その場にいた深澤まり子さんは、よろめいて広瀬志保さんに寄り掛かった。

当時副牧師だった門谷信愛希牧師(現古川福音自由教会)は集会を終えて、教会堂隣の住居に生後3か月の娘といた。「揺れが収まり、そうこうするうちに停電していることが分かりました」

スーパーに買い物に出かけていた妻の真由美さんは、2歳の長女と青白い顔をして車で戻ってきた。「スーパーでは大きな揺れで魚売り場の看板が落ちた。腰が抜け、しばらく立てなくなったそうです」

当時宮城県で大型の地震が来ることが予測されており、門谷牧師は、防災を意識していた。すぐさま風呂に水を張ると、水道水はだんだんと茶色になり、浴槽の3分の2ほどで止まった。教会堂の方にも呼び掛けてバケツに水をためた。

教会堂は食器棚の皿が数枚割れたり、CDラックが倒れるなどしていた。「牧師室のスチール棚が倒れており、もしそこに田牧師がいたら大けがをしていた可能性がありました」

深澤さんは1978年の宮城県沖地震を経験している。「当時はアパートで一人暮らしをしていた。今回よりもあの時の揺れの方が強かった」などと経験を話していると、門谷牧師は「当時とは違いますよ」と携帯電話でニュース映像を表示した。津波が東北地方太平洋全域を襲っていた。
電気も通じない。使う時間を節約しながら携帯電話を使った。 (つづく)

2021年9月5日号掲載記事