【連載】私の3.11~10年目の証し 震災前からの困窮/会堂流出の現場 第四部仙台での一週間⑦
震災前からの困窮/会堂流出の現場 私の3.11~10年目の証し 第四部仙台での一週間⑦
東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
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2011年3月22日
夜、兵庫県のクライストコミュニティから大橋謙一牧師らの救援チームが到着した。
3月23日
この日のデボーション誌『マナ』の個所は黙示録1章1~8節。世界の終わりを見るかのような被災地の状況の中、「今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者」の存在が希望になる。
朝は祈祷会をし、その後チームに分かれて支援活動が始まった。私は会堂に残り、近隣への物資配布などを手伝った。
21日に、日本福音自由教会協議会を通して各地から運ばれた段ボール600箱の物資や義援金を見て吉田真知子さん(仙台教会吉田耕三牧師夫人)は「これは無駄にしてはいけない、届けなくては」と思わされた。教会員の庄司弘子さんは、「全国の皆さんから祈られ、物資が届けられたことに背中を押された」、同じく深澤まり子さんは「段ボールに手紙が入っていて祈っている。すごく励みになった」と話す。
近隣への配布では食品、日用品を袋に小分けし、物資配布の案内、聖書のことばを入れた。教会堂横の受付には小学生や中学生などが座り、なごやかな雰囲気だった。近隣配布は3月31日までに5回実施し、千200件に配布。教会での受付には4月15日まで計356人が訪れた。
徐々に明らかになったのは、公営団地などの暮らしぶりだ。「震災以前からある貧困の状況が分かった。震災が無ければ気づかなった」と真知子さんは振り返った。
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この日、門谷信愛希さん(仙台福音自由教会副牧師当時)は大橋さんらのチームと仙台市沿岸を回った。津波で会堂が流出した単立シーサイドバイブルチャペル(現つばめさわキリスト教会、内藤智裕牧師)をめざした。
沿岸は陸前高田市で見たような残がいが広がっていた。歩いていた地元の人によれば、近所の小学校の屋上に避難した人は助かったが、横の体育館は低かったため、大ぜいの方が亡くなったとのことだった。
GPSで教会の場所に行くと、土台だけが残っていた。「そこで突然『先生! 牧師先生がいらっしゃいました!』との声。駆けつけてみると、そこにはなんと偶然母教会の方々と視察に来られた内藤先生がおられました…」
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以下は内藤さんによる寄稿から。
3月11日
震災直後、私は、その45分後くらいに襲ってくる大津波を予測することはなく、結果的に40分くらいの間、教会兼自宅の建物内に留まっていました。その間、建物内部で、倒れたり破損した物をチェックし、外に出て建物の破損状況などをチェックしていました。前年に、建物の屋根が台風の飛来物で破損していて、それを直したばかりだったのですが、屋根の尾根部分がガタガタになっているのを見ました。「ああ、また修理しなくては」と思っていました。道路向いにある家の壁が落ちているのも見ました。
そうしているうちに、内陸方面に車で買い物に行っていた妻が戻って来ました。妻によると、ラジオで津波から避難するよう呼び掛けているようで、とにかく、ここから内陸に行こうと言いました。そこで、私と妻は、まず、そこから2キロほど内陸の、子どもらが借りているアパートに車で向かいました。そのとき、私は津波に対しての危機感が薄かったのですが、それは、その前年にチリ地震が起こり、予想される津波を警戒し、避難するようにという呼びかけがあったものの、実際には全く影響がなかったので、その経験がマイナスに働いたと思います。
さて、車は七北田川に沿った道路を上流に向かって行くのですが、途中、中野小学校を右手方面に見ますと、多くの人々が、二階建ての小学校の屋上にいました。そして、たくさんの車が運動場に駐車してありました。その時は、皆さん、念のためにそこにいるという感じだったと思います。結果的に、その屋上に避難した人々は全員助かりましたが、車は残らず津波に覆われてしまったかと思います。
アパートに着くと、子どもらは避難していたので、私たちはそこを離れ、さらに内陸に向かいました。途中、渋滞しているので脇道に入ると、そのとき田んぼの向こう、目測300メートル海側から、木くずなどを伴う津波(陸上を這う)の先端を目にしました…。(つづく)