【連載】私の3.11~10年目の証し 仙台から気仙沼へ 第四部仙台での一週間⑨
仙台から気仙沼へ 私の3.11~10年目の証し 第四部仙台での一週間⑨
東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
前回まで
2011年3月24日
この日のデボーション誌『マナ』の個所は黙示録2章1~7節。Ⅰヨハネに続き、「初めの愛」に言及する(本連載序2021年8月29日号参照)。目の前の活動に追われるが、その動機が問われる。
この日は、沿岸の気仙沼市に向かった。前年に仙台教会では、福祉的な働き「サマリヤ会」を充実させようと、気仙沼市のキリスト教系福祉施設キングス・タウンを視察する試みがあった。この日の時点では、「森正義施設長(当時)の無事が確認された」くらいの情報しか伝わっていなかった。
仙台市泉区にできた救援団体サマリタンズ・パースと日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)の倉庫に寄ると、様々な宣教団体、神学校、教団の救援チームが行き来していた。それらの団体経由で活動していた福音自由教会メンバーとも再会した。それぞれの近況を聴きつつ、沿岸地域のキリスト教会の活動の広がりをまざまざと感じさせられる場所だった。
東北自動車道岩手県一関インターから車で30キロ。山地を抜けて沿岸に向かった。陸前高田市は、平野へ入ったとたん残骸が広がり、救援車が行き交うのみだった(連載④参照)が、気仙沼市はどうだろう。かたずを飲んで景色を見守った。
救援車ではなく、一般車の往来が、激しかった。商店街は、ところどころ営業している店があった。気仙沼駅周辺の市街地は、ほぼ無事だった。沿岸部に丈夫な建物があり、それが防波堤となったためだ。一方、本来の防波堤を、津波が軽々越えた。気仙沼は、22日から徐々に電気・水道が開通し、ガソリンも届いているとのこと。復旧に向かいつつある…(クリスチャン新聞2011年4月10日号)
キングス・タウンは市街地にあり、見た目は無傷だった。一階には、多くの張り紙がされ、人々が行き交い、地域の情報拠点になっている様子だった。門谷信愛希さん(仙台教会副牧師当時、現古川福音自由教会牧師)は当時のことをこう記録している。
施設長の森先生はご健在で、玄関で佇んでおられました。早速様子を聞いた所、「地震発生当時は出かけていたが、避難して助かった。 津波はこの施設から西側に200mのところまで来たが、そこで留まった。ここではマンホールから水が溢れた程度であった。ただ、港の方に行くとすごいことになっている。ケアハウスの南三陸キングスガーデンも高台なので無事であったが、グループホームについては流された。職員の中にも家が流された人がいる。施設の車も流され、当初はガソリンも無かったので移動できず大変であったが、ある会社役員の方がタンクローリー一台分のガソリンを提供して下さったので助けられた。」とのことでした。(石巻福音自由教会ブログ内「支援活動ブログ」)
森施設長の案内で津波で流出した保守バプ・気仙沼第一聖書バプテスト教会(本連載第一部参照)の会堂があった南気仙沼駅付近に向かった。
文字通り跡形もありませんでした。そこには、気仙沼第一聖書バプテスト教会がありましたが、森先生も「私にもこのあたり、としか言えないのです」ということでした。主の教会が土台だけしか残されていないとは、本当に心痛む風景でした。周囲も、ホームセンター、レストラン、ケーブルテレビの施設、生コン製造所、水産加工場・・ すべてが変わり果てていました…(上述ブログ)
キングス・タウンを有する社会法人キングス・ガーデン宮城は、1995年に設立。2021年現在気仙沼市内五拠点を中心に、20以上のサービス事業を展開する。震災では南気仙沼や星谷エリアの施設が流出した。このうち「仲町ブランチ」は震災前日に鍵の引渡しを受けたばかりだった。
森施設長は21年時点では退職しているため、佐藤由美子理事長に震災当時の様子を聞いた。
3月11日
「地震の時はキングス・タウンの2階にいて、部屋を飛び出した。しばらく立ちすくんでから、外に出ても、まだ揺れていました」
デイサービスやショートステイなどの利用者がいたが、停電し、家族とも連絡ができない。津波の恐れがあったが状況が分からない。利用者にはとどまってもらった。指定されている避難所への道が津波で寸断されたため、地域でもひときわ高い鉄筋コンクリートのキングス・タウンに人々が集まって来た。(つづく)
【高橋良知】