【連載】私の3.11~10年目の証し 被災地にあり続け、感じる「ズレ」 第四部仙台での一週間⑪
写真=教会から見た気仙沼市の火災の様子。千葉氏提供
東日本大震災時、学生だった私(記者)は、所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
前回まで
2011年3月24日
この日私たちは、単立気仙沼聖書バプテスト教会(千葉仁胤牧師・当時)にも立ち寄った。
「丘の上の教会と呼ばれている気仙沼聖書バプテスト教会(千葉仁胤牧師)は、無事だった。道が狭くて、マイクロバスで行った私たちは入れなかった。教会には物資がたくさん届き、置き場所や、使い道に困るほどだとのこと…」(クリスチャン新聞2011年4月10日号)
市内に三つあったプロテスタント教会は、一つが会堂流出、一つは牧師が病気だったため、初期段階では気仙沼聖書バプテスト教会が救援拠点になった。現在でも支援活動を続ける千葉さんに当時について聞いた。
3月11日
千葉さんは市外での用事から帰宅途中、石巻市の高速道路を車で走っていた。「急に横揺れがしてタイヤがパンクしたのかと思った。前を走っていたトラック2台くらいが急に止まって左右に揺れ始め、倒れるのではないかというほど激しく揺れた。経験したことのない揺れだった」と話す。
高速道路は損傷していたが終点まで走り、渋滞を避け、内陸の道を通った。道は所々損傷しており、通常の2倍ほどの時間をかけて帰宅した。「午後6時半ころで日が暮れていたが、海側の空が赤かった。丘の上にある教会から街の東側全体が赤く燃えているのが見えた。津波が来ただろうが、暗くて状況が分からなかった。まさか市街の3分の1が津波の被害を受けたとは思いませんでした」
12日以降
信徒の安否を尋ねたが、電話も通じず、12日時点では、20人中半分ほどの連絡しかとれなかった。一家族の家が津波で完全に流出、2か所が床上浸水(一軒は後に修復して居住、一軒は取り壊した)。一家族が火災地域で大きな被害を受けた。それぞれ避難所や親族の家などで過ごした。「亡くなった人はいなかったが、役所、学校関係者がおり、10日間ほど職場で泊まり込み、支援に対応していました」
教会近辺は地域独自の水道設備があり、2日目から復旧したが、それまでは、近くの川や積もっていた雪を解かして使うなどした。ガスはボンベだったので、短い期間止まったが回復した。一週間停電は続いた。「市役所では1人5分制限で携帯電話を使わせてもらうことができた」
13日の礼拝は、7人ほどが出席した。「電気、暖房もない中、礼拝をささげ、祈りをともにしました」
20日以降
「ボランティアの方々が駆けつけてくれ、20日の礼拝は二十数人加わってくれた。3、4月はサマリタンズ・パースやクラッシュ・ジャパンといった支援団体も入ってくれた。アメリカや韓国、シンガポールなど海外の人も来教、あちこちで通訳の声が聞こえていた。うれしい反面、ふだんと違う礼拝に戸惑うこともあった。このような状況は1年ほど続いた。しかし、それも懐かしい思い出です」
国内外から多くの支援があったことで、「地域の人々も変化し、開放的になったと思う」。「地方だと、よそから来た人とはあまり話さないということがあったが、いろいろな支援者が来たことで、次第に心が開いていった」と述べた。
被災地の教会全体を見渡したとき、苦労もあった。「本来十数人で礼拝している教会が多く、大量にボランティアが入る状況を受け止めるのは難しい。ある教会では牧師が支援に力を注ぐ一方、今まであった信徒同志の交わりが少なくなり、淋しさを覚えることもあった。牧師が体調を崩したり、亡くなる人もいた。私たちも何とか苦労し、やってきました」
後方支援をする団体と、被災地に在り続ける教会の間でも「少しのズレ」は感じた。「支援する教会は、戻る場所があるが、被災地にある教会はそこから動くことができない。24時間被災地の人々と同じ状況で暮らす。ある時、伝道に熱心な団体が来て、仮設住宅を戸別訪問したり、トラクトを配ったりした。そのことで注意を受けるのは地元にある教会だ。自治体から『宗教活動は自粛してください』と電話が来ました」
10年経ち、気仙沼市に拠点のあった団体も撤退するなど、支援活動はだんだんと縮小してきた。地方伝道の課題にも直面する。現在の課題と取り組みを次回聞く。(つづく)
(クリスチャン新聞web版掲載記事)