「歴史化」にこぼれたものたちへ光 「東日本大震災10年 あかし testaments」展
雪景色と一体化した青森県立美術館(12月18日)
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書1章5節
「まことの光」は「すべての人を照ら」(ヨハネ1章9節)し、「闇が全くない」(ヨハネの手紙第一1章5節)。だが地上には、いまだ闇が広がっている。一時的な光が地上にあるが、それは完全ではないので「影」ができる。
光の側に安住するだけでは、まだ照らされていない「影」に気づけないかもしれない。キリスト教会にとって東日本大震災は、光の側から「闇」に身を投じ、痛みに寄り添う大きなきっかけになったのではなかったか。
東日本大震災から10年。「復興」は進んだ。道路が開通し、都市機能は整備され、震災を語り継ぐための「伝承館」や「祈念公園」も続々と開設された。
今後、震災が歴史化する。その時に「復興」という「光」の物語の陰に、見えにくくされているものがないか。「震災の被災の現実が無かったことにされるのではないか」…。このような問題意識による意欲的な美術展、「東日本大震災10年 あかし testaments」展が青森県立美術館(青森県青森市 HP http://www.aomori-museum.jp/ja/)で開催されている(2022年1月23日まで)。
「歴史化」を意識する同展では、震災の現実を露わにする以上に、時代から取りこぼされてゆく様々な存在に目を向けた4人のアーティストたちの試みに主眼を置く。70年前の戦争や虐殺、20年前の災害やテロ…など、これらの記憶を扱う取り組みは、今後の東日本大震災への向き合い方に示唆を与えるだろう。
同展で言う「あかし」は多義的だ。「見えなくなったもの」を照らす「灯(あかし)」であるとともに、物事の拠り所を明らかにする「証(あかし)」でもある。
キリスト者ならば「光について証しする」(ヨハネ1章8節)ことや個人の救済の「あかし」、また今回展示名で英訳に選ばれた「testaments」から旧新約聖書(Old/New Testament)を連想するだろう。
同展では、小さなものたちに目を留めることで、そこに照らされているかすかな「光」を発見できるかもしれない。キリスト者もまた、自ら光るのではなく、光を仰ぎつつ、照らされる存在だ。映像や写真という光を操る同展のアーティストたちの鋭敏な視線から何を見出せるか。
白壁と土の壁、床がコントラストをなす
青森県八戸市から宮城県仙台市まで359キロの沿岸をつなぐ三陸沿岸道路、いわゆる「復興道路」が開通した12月18日、記者は同展を訪ねた。日本海側を中心に大雪に見舞われ、白壁の美術館は、雪景色と一体化していた。
白壁に加え、土を固めた壁と床とがコントラストをなす空間が同美術館の特徴だ。これは隣接する縄文時代の遺跡「三内丸山遺跡」を意識したものだという。シンプルだが無機質ではない空間で、人と自然の悠久の営みに思いをはせられる。
モレキュラーシアター公演《Legend of Ho》(2000)
舞踏家・中嶋夏(左)と豊島重之(右)photo: Toru Yoshida
八戸市を拠点にした豊島重之作品は、点滅する複数のテレビを囲んだ舞台装置、めまぐるしいドキュメント映像、音声、関連のテキストなど。その乱反射にめまいを感じる。ここでは阪神淡路大震災や9.11テロを背景にしたテクノロジー、メディア、人間の身体の関係が表される。
コ・スンウク≪未知の肖像≫ビデオ(2018)©Koh Seung Wook
韓国済州島出身のコ・スンウクは、東アジアの緊張関係に翻弄された同島の歴史と記憶を扱う。たとえば長く韓国で語ることがタブー視されてきた「四・三事件」がある。大量の虐殺を生んだこの「事件」で両親が犠牲になった遺族のインタビュー映像があり、その周りに両親の肖像が並ぶ。だが肖像は覆われ一部しか見えない。
山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》ビデオ(2009)
©Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates
沖縄出身の山城知佳子作品では、大きなスクリーンに、涙に耐える女性(山城)が映る。戦争体験を語る男性の声にシンクロさせて、山城も口を動かす。聞くだけにとどまらない、他者の記憶の身体化があり、山城の表情も変化する。
北島敬三「PORTRAITS」より、顔料印刷 ©KITAJIMA KEIZO
展示室中央部では北島敬三による写真作品が列をなす。同じ人物が経年変化する正面写真が、ずらっと並ぶ。別の作品群では、東北沿岸被災地と日本の様々な地域の風景写真が交互に並ぶ。災害だけではなく、日常に置き忘れられたような物や人たちの瞬間が、そこに写されていた。
アーティストたちが照らした「あかし」の先に、キリスト者は何を見るか。9.11テロをニューヨークで経験したトラウマと向き合った、アーティストのマコトフジムラが今年まとめた『つくるの神学』(”Art and Faith: A Theology of Making”Yale University Press)がヒントになるだろう。
フジムラは、割れた陶器などを修復する日本の伝統的技法「金継ぎ」に注目する。その壊れや痛みの先に「単に元通りではない新しい創造」があると語る。そこに痛みを担うキリストの十字架と復活を見出す。
ここでの「新しさ」は、市場経済で次々と消費される「新しさ」以上の「新しい新しさ」であり、「新しさ」の意味自体を変える「変容」だとも言う。
「周縁的な領域を行き来するアーティストはこのような『新しさ』に気づきやすい」とフジムラは指摘する。ここには単に経済的な「復興」と異なった未来を想像する可能性がありそうだ。
東日本大震災から10年、クリスマス時期を挟んで開かれる、静かだが刺激的な空間で、人々と共に過去と未来の「あかし」について思いを巡らせてみてはどうだろう。
「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1章8節)
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