新連載 石巻の新しいこと ー序ー 2つの「川」 東日本大震災から10年
「昔のことに目を留めるな」(イザヤ43章18節)。東日本大震災から10年が過ぎた。もう過去のことはいい、前進あるのみ、か。
聖書全体では「忘れるな」「覚えなさい」のメッセージは多い。イザヤ43章も「証言」を強調する。過去を十分に踏まえ検証することは誠実な態度だろう。一方で想像を超える神の「新しいこと」を受け止める用意もしたい。 本連載では震災後、「石巻クリスチャンセンター」開設にいたった諸教派の動きをたどる。今回は序として、昨年夏に石巻の伝承施設などを訪問した様子を“川”に注目して紹介する。【高橋良知】
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岩手県から石巻まで流れる北上川は、人の手で、たびたび流路を変えてきた。江戸時代には新田開発や下流の三川合流の事業があり、河口の石巻は江戸と米どころをつなぐ通船で栄えた。
1910年の大洪水をきっかけに河口を北東の雄勝地域に分流し、現北上川となる(34年完成)。旧北上川も引き続き石巻市街を流れている。
両北上川河口はたびたび津波に遭ってきた。東日本大震災では沿岸が壊滅的な被害を受けた。
旧北上川河口近くにある日和山は、東日本大震災時、生死を分けた場所であり、避難所になった。ここは美しい海を眺望できる場所だった。
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岩手県内陸出身の宮沢賢治は少年時代、この丘で初めて海を見た。その感動をおごそかに詠んでいる。
われらひとしく丘に立ち/青ぐろくしてぶちうてる/あやしきもののひろがりを/東はてなくのぞみけり/そは巨(おお)いなる塩の水…
「われらひとしく丘に立ち」より抜粋
賢治の訪問は大洪水の2年後。詩の力強い描写には洪水のイメージがあったかもしれない。
「現代日本最高の詩人」とも呼ばれる吉増剛造は、震災後石巻に通いつめ、その成果を、昨年詩集「Voix」(思潮社)にまとめた。賢治の詩も引用する。
吉増の詩は、断片的な言葉があふれる前衛詩だ。石巻で出会った様々な人とのエピソードや先人(古代教父なども)の言葉が挿入されており、「根源の言葉」を求める詩人の旅路をたどれる。ちなみに吉増は少年時に洗礼を受けており、この詩集も含め、多くの詩で水のイメージを描写している。
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日和山の南側、南浜地域には昨年石巻南浜津波復興祈念公園が開園した。震災前の区画を残しつつ、祈りの場、市民活動の場を設ける。
公園内の伝承館は、宮城県を代表する位置づけだが、映像とパネルの展示が中心で、岩手県、福島県の同様の施設より小規模だ。一方スタッフは来館者に声をかけ、積極的に被災状況や震災体験を語っていた。
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JR鹿又駅から、雄勝の北上川沿いを河口へ向け、タクシーで30分近く走った。目的地は震災遺構として昨年整備された大川小学校だ。震災の津波で70人の児童、10人の教員の死亡、4人の児童が行方不明となる戦後最大の学校災害となった。避難対応に加え、事故後の対応も悪く、遺族からの訴訟に発展した。
訪問時親子連れの団体が訪れていた。「100人の子どもたちがいっしょに逃げたんだよ」「(津波は)ボクんちの家よりも高いね」などと会話する声が聞かれた。児童らが避難した経路や、逃げるべきだった裏山への経路を歩くなどして、災害の教訓を確かめていた。新設の伝承館では、地域の歴史と被害状況、裁判記録などを紹介する。遺族などからは「まだ内容の更新が必要」という声もある。
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膨大な数の伝承施設が生まれ、それらは「3・11伝承ロード」として連携する。震災が歴史化するが、固定化したわけではない。伝えきれない内容、おおわれがちな問題の検証はたえず必要だ。市民は対話活動をしている。証言集やドキュメンタリー、オンライン資料などで補うことも有効だ。さらに想像力を喚起させる祈りや創造的な働きも大切となるだろう。(つづく)
(クリスチャン新聞web版掲載記事)