渡波エリアの黄金浜の空き地で青空市。2011年3月28日。写真=青柳さん提供

 

石巻市中心部を流れる旧北上川。その東側、牡鹿半島手前のエリアは渡波(わたのは)と呼ばれる。江戸時代、伊達政宗がローマに派遣したサン・ファン・バウティスタ号ゆかりの地でもある。このエリアは東日本大震災の津波では、市内でもっとも人的被害が大きく、支援も遅れた。ここにキリスト教会の支援が入り、拠点、教会が複数形成された。今回は日本長老教会有志の働きをたどる。【高橋良知】

 

前回まで

☆新連載 石巻の新しいことー序ー  2つの「川」

☆「同じ痛み」で愛に動く  ~1~ 

支援・伝道協力で次世代育つ ~2~

 

§   §
震災後、千葉県千葉市の長老教会・おゆみ野キリスト教会を中心に共同支援プロジェクト「ヘルプ東北・地震災害支援」が設立され、東京・中央区のグレースシティチャーチ東京も「グレースシティリリーフ」というミニストリーを立ち上げ、これに協力した。初期は福島県の支援を続けたが、やがて支援の中心は宮城県沿岸に移った。

震災から約2週間後、当時のおゆみ野キリスト教会牧師ダニエル・アイバーソンさんの息子が、仲間10人ほどとともに米国から救援に駆けつけた。「それぞれ家族が日本の宣教にかかわるなど、日本に対して重荷がある人たちでした」と大舘晴明さん(同教会協力宣教師)は振り返る。「ダニエル牧師は、この働きが単に災害救助だけではなく、本当のいのちを救うため、福音を伝えるミニストリーとなることを頭に入れて動いていた。拠点となる場を探しました」

 

周辺の津波被害の様子

選んだのは石巻市渡波エリアだった。青柳聖真さん(グレース・ハーバーチャーチ牧師)は「支所に物資をおろすと、たくさんの人が集まって来た。本当に必要があると実感した」と言う。

津波被害をまぬがれた自宅2階で暮らす人たちがいた。避難所にあるような支援が届いておらず、空き地で炊き出しをした。

東京方面から金曜夜に出発して土曜の日中はボランティア、また夜に戻り、日曜は東京で礼拝、という活動が続いた。「当時開拓が始まったばかりの教会。資金はない。外国のネットワークの支援をいただいて活動できた」と福田真理さん(グレースシティチャーチ東京牧師)は話した。

国際SILの働きに従事するウイクリフ聖書翻訳協会宣教師の高田正博さんはヘルプ東北のスタッフとして活動し、「支援の第二フェーズに入った」と認識した。「災害で受けた傷からのリカバリーをどのようにしていったらよいのか。メンタルケアのためのワークショップなども取り組んでいきたいです。心のケアのチームを送ることも考えています」(本紙2011年4月10日号)と述べている。

§   §
大舘さんは、当時勤めていたリサイクルショップをやめて、ヘルプ東北の働きに従事した。給与サポートは当初4か月間と言われたが、「震災を通して明日のことは分からないと痛感した。ならば神様のミニストリーにかかわっていきたい」との思いで踏み出した。

夏までに支援拠点となる家屋を借り、スタッフは一週間交代で滞在した。周辺の必要を聴きまわり、泥出し、清掃、何でも頼まれたことに応じた。夏祭りを企画し屋台を出した。

「何でおれの奥さんは死んじゃったのか」「お金が入ってこない。政府は何をしているのか」など様々な声をきいた。「ひたすら話を聞くのみ、最初の半年くらいは神様の話をするチャンスはありませんでした」

福田さんも多くのショッキングな話を聞いた。「ある男性は、2階に逃げて津波は免れたが、家の外から助けを求める声を聞いたという。何度も何度も叫びが繰り返され、やがて聞こえなくなった、と。多くの人たちから繰り返し、そのような話を聞くだけでも精神的なダメージを受けます」

あるとき、渡波から市街に向かう橋をわたるとき、非常に大きな悲しみがわいたという。「神さま、この悲しみの中でいったいどこにいるのですか…」

「被災した人と同じ気持ちとまでは言えない。しかし、何か感じ取り、彼らといっしょに歩みたい。『必ず街は復興する、悲しみから人々がよみがえる』と神様から迫られた。人々はみな『忘れないでほしい』と言う。心を決めて、定期的に関わり続けることにしました」(つづく)

クリスチャン新聞web版掲載記事)