リニューアル新連載 第1弾

碓井 真史 新潟青陵大学大学院教授/心理学者

戦争へと到る攻撃性はどこから

戦争が始まった。クリスチャンたちは、平和のために祈っていることだろう。ただキリスト教団体の多くは、戦争を否定的には見ても、防衛などの戦争は認めている。

十戒の「殺してはならない」は、戦争には適用されないと考え、軍隊には従軍チャプレンがいる。法的にも、戦場での敵兵殺害は殺人罪にはならない。

21世紀の今も、戦争は宗教的にも是認される部分があり、合法的だ。だからこそ、平和を愛する私たちは苦悩する。

ここで戦争の神学や哲学を語るのは、私の役割ではない。今回は、人間の怒りや攻撃の心理について考えたい。まず怒りや攻撃は、本能だろうか。本能なら無くすことはできない。ただ、本能なら必要以上のことをしないのが普通だ。

動物は、ナワバリを侵すものを攻撃するが、深追いはしない。ところが人間はどうだろう。怒りに燃えて攻撃し続ける。

自分の幸福を犠牲にしてでも、恨みを持って必要以上に追い回す。人間が本能部分以上の攻撃をするから悲劇が生まれるが、本能でないなら止めることもできるはずだ。

人は、自分の思い通りにならない葛藤状況で怒る。

ただし、怒りがいつも攻撃になるわけではない。攻撃は弱者に向かう。研究によれば、小さくて安い自動車ほど、後ろからクラクションを鳴らされやすい。

相手を下に見ることが、攻撃を生む。子どもの家庭内暴力なども、弱者としての母に向かうことが多い。これは、下に見ているというよりも、母に対する甘えによる攻撃だ。

母に対する暴力なら許されると思っているのだ。この相手への攻撃なら許されると感じる環境で、暴力は始まる。

不必要で過剰な怒りや攻撃は、認知(考え、判断)の歪(ゆが)みや、感情の暴走が招いている。

人は自分たちが正しいと感じている。

日本人とアメリカ人がボクシングをすれば、両国の観衆はそれぞれ自国選手が勝っているように見える。男女の争いも同様だろう。

自分を愛し、郷土を愛することは、本来は健康的なことだ。ただし、自分や自国の価値と同時に、他者や他国の価値も認めるのが、健康的な姿だ。

しかし、歪んだ自己愛傾向者は他者の価値を認めない。彼らは自分が正しいと感じ、他者からの言動を実際以上に敵意あるものと認知し、だからこそ暴力的な反撃方法さえ正当だと感じてしまう。

戦争関連の感情は、恐怖、怒り、不安、憎しみ、恥、集団の一体感、内集団(身内)びいき、そして争いは避けられないとの信念などが絡み合っている。恐怖と怒りは、相手への蔑視と敵意に変化し、一体感は極端な国家主義へと容易につながっていく。

自分たちの不十分さを知ることが、平和への一歩ではないだろうか。人は自分が周囲から受け入れられていないと感じると、弱みが出せなくなり、そして暴力的になりやすい。戦いの全てを否定はできない。しかし戦いだけでは解決はない。

碓井 真史 新潟青陵大学大学院教授/心理学者

うすい・まふみ:1959年生まれ。日本大学大学院修了。博士(心理学)。新潟市スクールカウンセラー兼任。ヤフーニュースでの記事執筆、著書、メディア出演など多数。

 

クリスチャン新聞web版掲載記事)