【神学】福音伝道者ビリー・グラハムの政治性研究 評者 村田充八

『ビリー・グラハムと「神の下の国家」アメリカ』

相川裕亮著 新教出版社 2,750円税込 四六判・304頁

【評者】村田充八(みちや)
関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程単位取得退学(博士:学術)。
社会倫理学、宗教社会学専攻。ロバーツウェスレアン大学交換研究員、カルヴァン大学、ロンドン大学(SOAS)客員研究員。元大阪キリスト教短期大学専任講師、阪南大学名誉教授。著書に『戦争と聖書的平和』(聖恵授産所出版部)、『技術社会と社会倫理』、『社会的エートスと社会倫理』、『宗教の発見』、『キリスト教と社会学の間』、『戦争と聖書の平和』(晃洋書房)。改革派・神港教会長老。

 

「罪」の神学で国家とどう関わったか

 

本書の意義と構成

著者はアメリカ合衆国の政治史、政治思想史、キリスト教史を専攻し、米国の福音派、政治とキリスト教の関係について研究する政治学者である。福音伝道者ビリー・グラハム(1918-2018)の政治性について、自伝(Just As I Am『いさおなき我を』)他、グラハム研究文献を読み込み、米国政治と深く関わったグラハムの人となり、福音伝道者としての「職務観」を媒介として、第二次世界大戦後、1970年代までを中心に米国政治とキリスト教関係史を浮かび上がらせた。

一貫してファンダメンタルな「罪」意識をもちつつ、クルセード(大伝道礼拝)をベルーフ(職務)とする福音伝道者グラハムが、どのように米国の政治社会の権力中枢と関係し、「自由」などの米国的価値を評価したかが詳述されており、戦後の米国史研究の一つの先行研究文献となろう。

特にグラハムとニクソン元米国大統領との交友や、著名な神学者・社会倫理学者ラインホールド・ニーバーによるグラハム批判、また最新のグラハム研究者、歴史学者のアンドリュー・フィンステューエンがグラハムの「罪」理解をどのように批評したか、さらにグラハム批判やニクソン政権の批判を展開したオレゴン州選出上院議員マーク・O・ハットフィールドと政権与党的なグラハムの態度の違いなど興味は尽きない。

第一章「ビリー・グラハムという人物―ファンダメンタリストと『福音派』―」でグラハムの人となりを紹介。第二章では、グラハムの信仰そのものを理解するために重要な、「『罪』の神学と『福音伝道者』としての職務観」が追究されている。グラハムに「罪」という視点が存在することに、彼の信仰の本質があることが提示される。

また、ニーバーが、グラハムの「個人的な偉業」(74頁)を評価しつつも、批判を繰り広げたことが示されている。著者は、その一例として、「グラハムが水素爆弾を作った人間が抱える問題を『宗教的な回心で治癒できる』と考えている」(67頁)とニーバーの痛烈な批判を例示している。ニーバーのグラハム批判には、現実の社会に生きる人々や社会への冷徹な想像力がグラハムには欠如していたという認識があったといえよう。

ニーバーとは異なり、「グラハムの『罪』の神学を再評価した」神学者として、アイダホ州ボイシ州立大学の歴史学者アンドリュー・フィンステューエンの視点を取り上げている。フィンステューエンは、ニーバーとパウル・ティリッヒ、グラハムの「原罪」観を比較し、グラハムには、ニーバーやティリッヒほど「神学的な深みはない」(82頁)と指摘しつつ、グラハムの「一九五〇年代の罪の理解を評価」(82頁)したとする。

第三章「冷たい戦争と魂の危機―『反共主義』とマッキンタイア―」において著者は、「グラハムが『罪』に関する理解を深めていった姿」について、「『反共主義』と『自由』」という概念をもとに論じている。

「自由と共産主義という、二つのイデオロギーを二項対立的にとらえる理解は、同時代(評者注:戦後、米ソ冷戦期の終わりまで)のアメリカ人が共有するものであった」(126頁)とし、「この反共主義に多くのキリスト教徒が関与した。(中略)その代表的な人物がグラハム」(127頁)であったと指摘する。

また、グラハムとの同時代人で、「厳格」なファンダメンタリストであったカール・マッキンタイアの米国社会への対応の相違を問題にしている。両者とも、「ファンダメンタリストの血を引く」(135頁)存在でありつつ、マッキンタイアが共産主義をキリスト教の敵とし「アメリカを『自由』の擁護者」(136頁)とみたのに対し、グラハムは「罪」を強調し、米国の「自由」などの「アメリカ的価値」を絶対化するのではなく相対化していたとする。

 

政治へのコミットメント
―ニクソンとの交流―

第四章「大統領の聖所と神殿―『サイレント・マジョリティ』とニクソン・ピール―」においては、ニクソン大統領が高い信頼を置いたグラハムとノーマン・ヴィンセント・ピールの両者の信仰を比較し、両者と米国政治との関係性が示されている。「個人と神の力との結びつきの知覚を強調」(182頁)する積極的思考のキリスト教指導者ピールは「癒し」を強調し、自信を失った人々に対し、「人々を癒し、誇りと自信を取り戻させ」(188頁)ようとするものであったのに対し、グラハムの信仰は、「罪が強く意識」(186頁)され、「人々の罪を暴き、悔い改めを迫る」(188頁)ものであったという。ニクソンと適合的なピールの信仰とは異なり、グラハムの信仰は、社会や人々に「罪」を自覚させ、悔い改めを迫るものであった。

第五章「『神の下の国家』の再構築―『市民宗教』とハットフィールド」においては、「アイゼンハワーがグラハムと協力して創り上げた『神の下の国家』」(206頁)をどのように回復させようと苦闘したかについて、グラハムと上院議員ハットフィールドを対峙(たいじ)させている。

ハットフィールドは、「ジョンソン、ニクソン両政権のベトナム戦争に反対」(207頁)し、グラハムやニクソン大統領のベトナム政策を厳しく批判した。一方グラハムは、旧約聖書の「祭司」としての役割を果たしていたニクソン大統領を「支持し続けた」(211頁)。ハットフィールドは、当時のニクソン大統領に対し、旧約聖書の預言者的な、ウォッチドッグ的な視点から、ニクソンの政策やグラハムの伝道を厳しく批判したという。

結論と感想

「グラハムは政治権力に深入りし過ぎた」(227頁)という著者の言葉を、本書の内容の要約としておこう。
三点、感想を述べる。一つは、著者が、第三章脚注(63)で言及している点である。オランダのネオ・カルヴィニストと位置づけられるアブラハム・カイパーは、政治と深い関わりをもち、首相という「職務」にも生きた。カイパーがどのような意味において政治を志したのか、福音伝道者として生きたグラハムとの対比についての言及がほしかった。第二は、本書でも言及されている米国キリスト教史家マーク・A・ノールが指摘した問題である。ノールの著作『神と人種|アメリカ政治を動かすもの』に示されているようなグラハムと「人種」の関わりについての追究がほしかった。

グラハムが、「公民権運動の旗手マーティン・ルーサー・キング」(46頁)とも交流があったとはいえ、米国政治史において避けることのできない「人種」問題について、グラハムの論点をより詳しく説明してほしかった。第三は、ニーバーが『道徳的人間と非道徳的社会』で指摘している国家と個人の論理の相違についての掘り下げがほしかった。
評者は久しぶりに、学問的な営為として上梓(じょうし)された重厚な著作に感銘を受けた。