私たちはみな、神が意図された本来の世界がどうあるべきかを直感的に知っており、今、世界が現にそういうあり方ではない現実に激しい憤りを感じ、痛みを共有しています。
創世記3章に記されている堕罪以降、人は力で他者を制圧し、支配する存在となりました。4~6章には、自分を中心とする世界を求め、神を排除した文明を築く人の姿があります。
7章では、ノアとその家族以外みな洪水で滅ぼされました。洪水後、再出発した人類は再び神に反抗します。神が「地に満ちよ」(9・1)と命じられたのに対し、シンアルの地に集結し「われわれが地の全面に散らされるといけないから」(11・4)と、神の御心とは反対のことを目指すようになりました。そして、共通の言語、目標、技術を駆使して、神をして「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない」(11・6)と言わしめるほどの成果を上げていきます。そこに巨大な都市と塔、王国を建てていったのです。

妻の美貴さん(左)と

しかし、その目的とは、神に反して自分自身の「名をあげよう」という、自らの栄光を誇るものでした。人間中心の世界、神を排除した文明が再び暴走し始めたその時、神が再び介入されました。人々の言語を混乱させ、その野望を頓挫させ、シンアルから全世界へと人々を散らされたのです。
しかし、散らされた人々の中から神は一人の人(アブラハム)を選び出し、その人とその子孫を通して新しい贖いの歴史を始められました。そしてついに、約束のメシア、イエスが到来されました。その教えの核心は、神を中心とした本来の世界の秩序「神の国」でした。イエスは〝教え〟として語られただけではなく、それを不可能としている人の罪の問題を解決するために、自ら人の罪を背負い、十字架で罪の裁きのために死に、罪の力を打ち破ってよみがえり、神の国の秩序を可能とする聖霊を弟子たちに約束され、昇天されたのです。
このイエスの約束を受けた弟子たちは、かつてシンアルの民が神の御心に反逆してそこに集結したのとは反対に、主の御心にしたがって「同じ場所に集まって」いました。
シンアル(バベル)で民が天に達そうとしたのとは真逆に、天から聖霊が弟子たちの上に降られました。バベルで人々が言葉を混乱させられ互いを理解できなくなったのとは対照的に、弟子たちは多くの国の言葉で神の偉大さを語り、集まっていたすべての民が同じ真理を理解し始めました。
バベルから異教が全世界に拡散し始めたのとは逆に、この日、エルサレムから地の果てにまで福音が拡散し始めました。
人の罪によってもたらされたバベルの原理を覆すように、あのペンテコステの日、神は福音と聖霊によってまったく新しい流れを起こされたのです。
今、私たちはこの新しい流れの中にあります。この流れはキリストの再臨によって本来の秩序が世界に回復されるその日まで続きます。
バベルの原理が猛威をふるい、力と力の対立による破壊が繰り広げられているこのウクライナの地で(そして傷ついているこの世界で)、福音と聖霊の力による神の国への流れが勢いを増し、すさまじい激流となりますように。一日も早い戦争の終息、復興の実現、宣教の前進を祈るばかりです。

(クリスチャン新聞web版掲載記事)