四六判・320ページ
定価2,200円(税込)
いのちのことば社

旧約聖書の出エジプト記20章に書かれている十戒と言えば、人として守るべき倫理の黄金律と見られてきた。キリスト者にとっては神に従う教えの基本でもある。新約聖書ではマタイの福音書5章の「山上の説教」がやはり、人として、キリスト者として従うべき倫理的規範のリストと見なされてきた。しかし『聖書を解釈するということ』(いのちのことば社)の著者である南野浩則氏は、どちらも単なるキリスト教倫理の教えを超え、神の支配の実現という観点で読むべきだと主張する。このほど出版された著書『十戒 シナイ契約・律法と山上の説教』の中で展開された論旨の概要を、同書の結論部分から抄録する。

「神の支配」共同体の実現に参与する

単に倫理的な教訓に従うことを超えて

南野 浩則(みなみの・ひろのり)

日本メノナイトブレザレン教団福音聖書神学校教務、石橋キリスト教会副牧師、大阪聖書学院非常勤講師、
AGST/Japan講師

組織神学やキリスト教倫理の視点から見れば、十戒をキリスト教会にとって重大な神学的・倫理的規定であると理解し、そこから議論することは間違いではないでしょう。しかし、もしこのような視点が絶対的であり、十戒に対する他の見方を見逃しているならば、そこには問題があります。聖書テクストの解釈という視点からすれば、十戒がシナイ契約に由来している規定として描かれている事実を無視することはできません。それは、十戒の理解にはシナイ契約の理解が不可欠であることを意味しています。

十戒を新約の福音と対立させる考え方もあります。少なくとも、両者を同じレベルでは見ないという見方です。もちろん、十戒を代表とする旧約律法とイエスの福音とは同じではありません。律法は古代イスラエル共同体に与えられた神学的・社会的な規範です。イエスの福音は、一世紀の東地中海に現れた、ユダヤ教から派生した社会運動に基づく良い知らせです。律法と福音を歴史的にも神学的にも何ら批判せず、まったく同じに見ることはできません。しかし、本書では両者が共有しうるポイントを探り出し、そこから十戒を解釈してみました。それは、神の支配の実現という観点です。

 

旧約律法を回復したイエスの再解釈

旧約レベルにおける律法のオリジナルの役割は、シナイ契約の具体的な実現の方向性や方策を示すことです。イスラエル共同体が神ヤハウェの民となり、神の支配に参与し、その実現を図ることがシナイ契約の目的でした。イスラエル共同体の罪を暴き立てることに律法の役割があるわけではありませんし、共同体に属する人々に罪の自覚を促すことにその使命があるわけでもありません。旧約テクストの読者は、律法が神の支配の実現を法的(社会の規範という側面)に支えていることに注目すべきです。

この注目点によって、イスラエル共同体が神ヤハウェの支配に生きていくための福祉的な視点から十戒を解釈することが可能となります。福祉とは、その社会に生きるための最低限を保証することだからです。イエスが神の支配という表現で語った福音について、旧約テクストのそのような視点から見ることができます。それは、逆に、旧約律法の解釈にイエスの神の支配との共通性を見出すことが許されることを意味しています。旧約律法とイエスが語った神の支配の福音とは、積極的な意味で互いに関連づけることができるのです。

絶対的倫理と解釈しない

イスラエル共同体が生きていくために、またそこに属する人々が生活していくために十戒・律法は与えられた、このような視点から解釈を試みてみました。それが神ヤハウェによる支配の基本的な価値観であり、シナイ契約はそれを目指していると考えているからです。
十戒の前半部は、神ヤハウェとイスラエル共同体の関連性を規定することで、神ヤハウェがもたらす価値観を設定していると解釈できます。中盤から後半部は、具体的な例を挙げながら、神ヤハウェが律法を通して守ろうとしている人々や社会的利益に言及していきます。時代性は十戒を絶対的な倫理として解釈することを拒絶します。十戒の歴史的制約は、その定められた目的を顕(あら)わにしますが、その歴史的・神学的な相対性をも明らかにします。
古代の十戒と現代の読者との関係を直接的に認めることは避けました。十戒をはじめとする旧約律法の文言そのものを現代に直接に適用しても無理が多いからです。その無理は、律法主義という形で聖書解釈を歪(ゆが)めてしまう可能性がありますし、現代のキリスト教会のあり方や宣教にも時代錯誤的な影響を与えてしまいかねません。時代的なギャップを無視して律法を適用させても、結局はその律法が定められた理由や、その律法が守ろうとしている人々と社会的利益を無視してしまう傾向に陥りやすいからです。むしろ、十戒を支える考え方を理解し、それを読者が生きる社会の価値観と対話させる方法を提案したいと思います。

イエスの律法解釈の視点

新約テクストがどのように具体的に律法を解釈しているのか、それを理解していくこともキリスト者としては大切です。その課題を本書では、「山上の説教」を中心にマタイ福音書から考えてみました。マタイ福音書は律法の遵守を福音理解における重要なポイントとして位置づけます。この位置づけには二つの意味がありました。一つは、ユダヤ教の伝統とされている律法解釈に基づくのではなく、イエスの律法解釈の視点から律法を遵守するように主の弟子たちに求めていることです。もう一つは、律法の遵守を非ユダヤ人キリスト者も含めた主の弟子たちに要求していることです。それは行為による義認ではなく、イエスの信によってもたらされた義(正義)に対するキリスト者の応答としての生き方の問題です。
律法を再解釈することで、その律法の趣旨をより明確にし、イエスは自らの弟子である者の生き方の方向性を示しているのです。それは、表面的にイエスのことばを遵守することではなく、それを支える価値観を解釈し、読者の各々のコンテクスト(状況)の中でその価値観を意義あるものにする生き方です。マタイ福音書から見れば、そのようなイエスの律法の再解釈は旧約律法の真の「回復」ということになるでしょう。

クリスチャン新聞web版掲載記事)