子どもの信教の自由か、
親の宗教教育の自由か

「宗教2世」たちの署名 活動が問うもの

「宗教2世に信教の自由を」。安倍元首相銃撃事件の直後から、このようなスローガンを掲げた署名活動が行われ、インターネット上で7万6千筆以上を集めている(4月25日現在)。 この署名活動では、一部の宗教信者の子ども(宗教2世)が、「望まない場合でも宗教活動や信仰生活を強制される」ことが問題とされ、「家庭内という閉鎖的な環境下で、拒否権のない信者の子どもの基本的人権(信教の自由・幸福追求権等)が侵害されている」事態に対処するための法律・行政の体制整備が求められている。
子どもの側に立てば、「信じたくない宗教を信じさせられる」ことは、確かに信教の自由の侵害であるように思われる。他方で、親の立場からすれば、自身の信じる宗教を子どもにも信じてほしいと願う気持ちは自然なものであり、子どもにどのような宗教教育を施すかは、親の自由であるとも考えられる。
このように、いわゆる「宗教2世問題」においては、親と子ども、両者の自由が深刻に対立しているように見える。この対立について、私たちはどのように考えるべきだろうか。]

信教の自由には「限界」がある

そもそも、憲法が信教の自由を保障しているということは、「国家は信仰の領域に踏み込んではならない」ことを意味する。憲法とは、国家を縛ることによって国民の権利や自由を守るものであり、国民を縛るものではない。
したがって、一般国民である「親」が「子どもの信教の自由を侵害する」ことは、原理的にはあり得ないはずである。むしろ、親が子どもに信仰継承を図ることが法律や行政によって規制されたとすれば、それこそ「親の信教の自由の侵害」になるおそれがある。
それでは、親は子どもをどう扱おうが自由なのだろうか。嫌がる子どもに信仰を押し付けるようなことも許されるのだろうか。
信教の自由を始めとする基本的人権には、「限界」がある。他者の権利や尊厳を傷つけるような行為は、基本的人権があるといっても保護されない(こうした考え方のことを「危害原理」と呼ぶ)。したがって、嫌がる子どもに身体的・心理的虐待を加えるようなことは、親に信教の自由があるとしても許されない。

虐待の例を見て、「思い当たる節」はないか

昨年12月、宗教2世問題への関心が高まる中で、厚労省が「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」を公表した。
このガイドラインでは、背景に宗教などの信仰があったとしても、児童虐待防止法に規定する児童虐待に該当することが行われた場合には、他の理由による児童虐待と同様に対処するという基本方針が示され、児童虐待に当たるケースの具体例が多数挙げられている。
身体的虐待の例としては、宗教活動への参加を体罰によって強制すること、まじめに話を聞いていなかった子どもを鞭(むち)で打つことなどがある。心理的虐待の例としては、「~をすれば地獄に堕ちる」といった言葉を用いて子どもに恐怖を刷り込むこと、宗教の教義を理由に子どもの交友関係、ゲームやアニメなどの娯楽を制限すること、繰り返し布教活動に参加させることなどが挙げられている。
これらの虐待の例を見て、「思い当たる節」はないだろうか、、、、、、、

2023年05月07日号 04面掲載記事)

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