10月7日、ガザ地区を実効支配するハマスの攻撃によってイスラエルとパレスチナの間が戦闘状態に陥った。だが両者の紛争は、この日に突然始まったわけではない。長年の対立の中で、少数派ではあるがどちらにもキリスト者が存在する。イスラエル生まれのパレスチナ人神学者は聖書をどう読むのか――本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイが4月に掲載したインタビュー記事から抄録する。(電子版に全文掲載)

イエスの復活はなぜイスラエルのパレスチナ人クリスチャンにとって重要なのか

 イスラエルのパレスチナ人キリスト教徒にとって、なぜイエスの復活が重要なのか? 日常的に抑圧と差別に直面しているイスラエル在住のパレスチナ人クリスチャンにとって、ユダヤ人と異邦人を和解させる十字架と復活の力は希望を与えている。キリストの復活は、世界が変えられるという究極の証明であると、パレスチナ系イスラエル人の神学者ヨハンナ・カタナチョは述べる。

 現在、約16万人のパレスチナ人キリスト教徒がイスラエルの市民権を持ち、その約3分の1がヨルダン川西岸とガザに住んでいる。そのひとりであるカタナチョは無神論者だったが、19歳の時にキリストを受け入れ、現在はナザレ福音主義大学の学長兼聖書学教授を務めている。

 彼の著書『パレスチナの眼で読むヨハネ福音書』は、ヨハネが伝統的なユダヤ教をキリストに照らして再解釈していることを探求している。「キリストを持つことが最大の祝福であり、キリストがいなければ何もないことをヨハネは見抜いている。その結果、空間、時間、歴史、アイデンティティー、土地は、キリストの中心性に照らして読み直される」と言う。

ヨハネ福音書を研究対象としたきっかけ

 「世界中の人々がヨハネの福音書を反ユダヤ主義的な見方で読むが、それは不当です。ヨハネはユダヤ人であり、これはイエス・キリストに従ったユダヤ人と従わなかったユダヤ人の間の議論なのです。ヨハネはその点で正当性を証明される必要があり、彼のメッセージはもっと明確に聞かれる必要があります」

 『パレスチナの眼で読むヨハネ福音書』の構想は「ヨハネは自分のアイデンティティーについてどのように悩んでいるのか?」という問いかけから始まったという。ヨハネ福音書では「わたしは〜である」という記述の中で、アイデンティティーに関する問いが大きく取り上げられていることに気づいた(ヨハネ6・35、8・1210・7、11112514・6、15・1)。

 「イスラエル国籍を持つパレスチナ人として、私は多数派ユダヤ人の中で自分のアイデンティティーと格闘しています。神が私のためにデザインされた複数のアイデンティティーを祝福したい。しかし現実には、聖書と相容れない政治的意図や文化的価値観のためにこれらのアイデンティティーは対立している。パレスチナ人、イスラエル人、イエスに従う者という私の複数のアイデンティティーはある人々を不快にさせ、その結果、彼らは私のアイデンティティーの気に入らない部分を消そうとします」

 「ヨハネの福音書を学ぶことは、私のようなパレスチナ人クリスチャンがアイデンティティーに内在する複雑な層を探求する機会を与えてくれます。ヨハネは多数派のユダヤ人の中でイエス・キリストに従う者で、私はイスラエルで多数派のユダヤ人の中で生きるクリスチャンです。それは、神と隣人を愛することに根ざした関係を築くことであり、憎しみに満ちた世界に愛の王国をもたらすことなのです」

受難週の出来事をどう読むか

 本書は、十字架の社会的・政治的現実について述べている。福音主義では十字架は贖罪を象徴していると見る。しかし、十字架には他にも重要な神学的側面があり、例えば平和創造のシンボルとして機能していることに著者は注目する。

 ローマがパックス・ロマーナ(ラテン語で「ローマの平和」)の時代に剣によって平和をもたらそうとしたのに対し、キリストは十字架上で死ぬことによって平和をもたらした。ローマが預言者の声を封じ、不正を永続させることで平和をもたらしたのに対し、キリストの平和は、抑圧者の心を変え、神との和解の扉を開くことで赦しを与える(ルカ233447)。

イスラエルに住むパレスチナ人が直面している抑圧

「私たちは二級市民として扱われます。抑圧的な法律や構造的な不公正に直面しています。もしあなたがパレスチナのイスラエル市民で、パレスチナ自治区出身のパレスチナ人と結婚した場合、配偶者はイスラエル市民権を取得できず、身分証明書さえ発行されません」

 イスラエルは建国以来、アラブの町を一つも作っていない。ネゲブにある町のいくつかは、1948年の建国以来イスラエル政府に承認されていない。パレスチナの町は、人々が税金を全額納めているにもかかわらず限られた資金しか受け取っていない。その結果、パレスチナの町のインフラは不足しており、医療、教育、行政サービスもない。人々の家は不法建築とみなされ、取り壊され続けている。

受難週の出来事は現在進行中の現実にどう語りかけるのか?

 「イエスは、ローマ帝国の暴力を十字架上で暴くことで彼らに対応されました。自分の傍らで十字架につけられた盗賊に見られたように苦しんでいる人々と共に苦しむことで、ローマの悪を示したのです」(ルカ233243

 「イエスは女性、貧しい人々、疎外された人々を力づけたり、癒やしたりするだけでなく、新しい世界を創造することによっても支援しました。この新しい世界の力が復活です。キリストの十字架の苦しみを通して、私たちはこの復活の瞬間に至る。そして希望と変革が可能であることを知る。復活はユダヤ人と異邦人の間の敵意を終わらせたのです。この新しい〝文明〟の幕開けは二流市民を擁する王国を終わらせ、すべての住民が一流市民である王国を創造しました。ユダヤ人と異邦人はキリストにあって平等なのです」

 イエスの復活は、愛、憐れみ、平等のすべてが、この新しい〝文明〟を指し示しているという。

 「和解の道を開くために、私たちはどのように正義と真の赦しを提供できるのか。私たちは不当に苦しんでいる人たちと共に苦しみ、ユダヤ人とパレスチナ人の双方を傷つける不正義と戦うことによってそうすることができるのです」

 しばしばパレスチナのアラブ人とイスラエルのユダヤ人のための二つの独立した国家を作ることが議論される。だが、イスラエル国民の20%以上はパレスチナ人である。「イスラエルで爆弾の脅威が生じれば私も脅威にさらされます。私はイスラエル国民でなくパレスチナ人とみなされ、私のアイデンティティーの一部が攻撃を受けるのです」と言い、カタナチョはペテロを例に挙げる。

 ペテロはそのアクセントからガリラヤ人のルーツが明らかになる(マタイ2673)。彼はエルサレムのユダヤ人の中でガリラヤ人であることの緊張を感じており、自分の文化的、言語的アイデンティティーを否定し、自分の倫理基準を否定し、結果的にキリストを否定することになった。

イエスがユダヤ人であることを正しく理解する

 「自分の言語的・文化的アイデンティティーを肯定し、同時にキリストを肯定するにはどうすればいいのか? ユダヤ人はイエスがユダヤ人であることを望む。パレスチナ人はイエスがパレスチナ人であってほしい。どちらのアプローチも民族主義的で、イエスを主であり救い主として礼拝することから私たちを遠ざけます。イスラエルという国家はユダヤ民族のためのものだという考えが広まっているが、それではイスラエル国民でもユダヤ人でない人は排除されます。これはイエスのユダヤ性の(本来の)福音理解ではありません」

 イエスはユダヤ教を包括的に再定義し、最も深い希望を具現化した。彼は、排他的民族中心主義ではなく愛に満ちた友好的な人間性を象徴する、完璧な人間なのだ。「イエスの終末論的なユダヤ性は、パレスチナ人を脅かすものではありません。他民族の人々を押し出す排他的なユダヤ性ではなく、パレスチナ人とイスラエル人がキリストにあって一つになるよう招くユダヤ性なのです。これは教会が必死に宣べ伝えるべきことです」

2023年11月19日号 06面掲載記事)