今年(2024年)7月に発行される新五千円札の顔・津田梅子。「女に学問はいらない」とされる時代に、日本初の女子留学生としてアメリカで学び、35歳で女子英学塾(現・津田塾大学)を創設、日本の女子高等教育に生涯を捧げたキリスト者だ。その足跡を旅するようにたどるビジュアルブック『梅子と旅する。―日本の女子教育のパイオニア』(フォレストブックス編集室編著)が2月に出版された。本書から、津田梅子の横顔を紹介する。


『梅子と旅する。 日本の女子教育のパイオニア』
フォレストブックス編集室 編著
四六変、96頁
いのちのことば社
定価1,650円(税込)

 

広く深く愛すること学び 実りある人生に

「サン・ビーム」のように

津田梅子が生まれたのは、幕末の1864年、日本が近代化に向けて大きく動き出す時代。梅子は自分の生涯を、「不思議な運命(strange fortune)」に導かれたと語っている。
日本初の女子留学生として、岩倉使節団とともに海を渡ったのは、梅子がまだ6歳の時だった。「出航の日は驚くような晴天。自分の国が見えなくなっていくのはなんて胸がドキドキしたことでしょう」。幼い梅子は英作文に書いている。
アメリカでホストファミリーとなったランマン夫妻は、聖ヨハネ教会(米国聖公会)の熱心な信者で、信仰と愛情をもって梅子を育てた。豊かな教育環境と高いレベルの学びの中で、利発な梅子はすくすくと成長。その輝くようなさまを、「サン・ビーム(太陽の光)」とランマンは記している。
梅子は8歳の時、自らの希望で洗礼を受ける。日本でキリスト教禁教令が解けた1873年のことだ。洗礼を授けたオールド・スウィーズ教会のペリンチーフ司祭は、梅子の信仰の確信が明確なことから、幼児洗礼ではなく成人洗礼を授けた。

逆カルチャーショック

11年の留学期間を終え、梅子は帰国する。6歳の少女は17歳になり、自分で考え、発言できる女性に成長していた。
官費留学生として国に恩返しをしたいと意気込んで帰国した梅子を待ち受けていたのは、強烈な逆カルチャーショックだった。とりわけ、日本での女性の地位の低さに落胆する。男子留学生には官職が用意されていたが、女子留学生に仕事はない。ようやく得た華族女学校の教職も、花嫁修業の良妻賢母教育。「温室の植物」のようで、自覚や向上心を持つことができない女生徒たちに痛々しさを感じる梅子だった。
留学生仲間で「女子のための学校を作ろう」と志を共にしていた親友・山川捨松でさえ、「日本では結婚をしていないと何もできない」と、地位のある男性・大山巌との結婚を選んだ。(後年、捨松は伯爵夫人の立場を生かし、梅子の学校づくりを支援することになる)。

再留学

自分の目指す教育を実現するために、梅子は再び海を渡り、アメリカの名門ブリンマー大学に留学する。ここで受けた質の高い少人数教育、精神的に豊かな学びの経験は、後の梅子の学校づくりに大きな影響を与えることになる。梅子は後進育成のための奨学金制度の設立と学校設立の資金集めに奔走。夢に向かって着々と準備を進めた。
留学から戻り華族女学校に復職した梅子は、女子高等師範学校などでも教えながら研鑽(けんさん)を積むが、女子英学塾を開校するまでには、さらに8年の歳月が必要だった。


2度目の留学(1889年)、ブリンマー大学入学の頃の梅子(写真:Wikimedia Commons)

 

キリストに似ること

1898年、梅子は「万国婦人クラブ連合大会」への出席のため3度目の渡米をするが、招待を受けて滞在したイギリスで忘れがたい出会いをする。イギリス国教会のヨーク大主教である。女子学校創立への不安、自らの信仰の弱さを梅子は正直に伝えた。大主教は「キリストに似ることが第一で、それ以外には……事業も教義もない」と語り、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」という新約聖書の言葉を書いて渡してくれた。梅子はその日、「同胞のために働きたい。そのことを通して神に仕えたい」と思いをつづっている。

オールラウンドウーマン

一年あまりの欧米の旅から帰国した梅子は、すさまじい勢いで学校創立へと向かう、、、、、、

2024年03月24・31日号09面掲載記事)