4月21日号1面:ガザ殺りくで平和づくり分断 イスラエル・パレスチナ和解30年 「ムサラハ」父子の苦悩
(1面)
昨年10月7日のハマスによるテロ攻撃から半年の4月7日、イスラエルはガザ南部から軍を撤退させると発表した。だが、ガザでは一般市民を含め死者が3万人を超える中でネタニヤフ首相はハマスせん滅の方針を変えておらず、停戦の実現は不明だ。そうした中イスラエルのメシアニックジューとパレスチナ人クリスチャンの間で30年以上、和解のための働きをしてきた組織ムサラハの活動が厳しい局面を迎えている。創設者のサリム・ムネイヤー(68)と次男で総主事のダニエル(38)ら平和構築に取り組む現地クリスチャンの声を、本紙提携の米誌クリスチャニティトゥデイが報じた。(敬称略)
ムサラハ創設者サリム・ムネイヤー(上)と次男ダニエル総主事(下)の表情は厳しい
Photo : Ofir Berman
解放と正義はどこにあるのか
非人間的な抑圧の中で 隣人とどう和解する?
1990年に設立されたムサラハは、イスラエルとパレスチナで最も古く、最も有名なキリスト教平和づくりの団体。名の由来はアラビア語で「和解」を意味する。そのキリスト教信仰に基づくアプローチは、世俗的な平和団体とは一線を画してきた。
発足当時はイスラエルとパレスチナの紛争に対する斬新なアプローチだった。最初の10年は熱意と楽観に満ちていた。90年代のオスロ合意はイスラエル人とパレスチナ人がいつの日か平和的に共存できるのではと希望を呼び起こし、ムサラハの集会はキリストが両者の相違を埋められるのではないかという良い感情で沸き立っていた。
しかし和平合意が崩壊し、2000年の第二次インティファーダでは3千人以上のパレスチナ人と千人以上のイスラエル人が死亡。多くの人々は独立したパレスチナとの2国家解決の可能性も失われたと感じた。ムネイヤー父子は、ユダヤ人がパレスチナ人について何を言っているのか、パレスチナ人がユダヤ人について何を言っているのか、国外のクリスチャンが約束の地について何を言っているのかを聞いた。
このトピックについて活発に議論した人々は、サリムに厳しい質問を投げかけた。 「解放と正義は和解のどこに位置するのか? 私たちを抑圧し、非人間的なシステムの中に置かれた隣人たちと私たちはどうやって和解するのか?」
イスラエル人とパレスチナ人の関係が悪化するにつれムサラハ内部にも亀裂が生じ、それはサリムとダニエルにとっていまだに痛手となっている。過去10年の間に、この組織はほとんどのメシアニックジューから支持されなくなった。
イスラエル政府はタカ派の右派にシフトし、ベンヤミン・ネタニヤフ首相の政治をめぐって国内は分裂。イスラエルが多くのアラブ諸国と関係を強化しつつある中で、パレスチナのニーズや要求がイスラエルの優先順位から下がっていることは明らかだった。
10月7日、多くのイスラエル人は和平工作からさらに遠ざかった。だがムネイヤー父子はムサラハの活動がこれまで以上に重要だと考えている。その証明は瓦礫(がれき)の中にあると言う。平和づくりと和解は重要なだけでなく必要不可欠なのだ。イスラエル人とパレスチナ人の関係がかつてないほど悪化し「和解」が双方の多くの人々にうさんくさい言葉のように思える今、平和と和解を30年以上説いてきたムサラハは何かを提供できるのか。そのような努力はもはや意味がないのか|イスラエルとヨルダン川西岸に1週間滞在し、多くのパレスチナ人クリスチャンとメシアニックジュー双方に取材したソフィア・リー記者は、そう自問する。
イスラエル・パレスチナの関係がこれまでになく困難に陥っている今、キリストによる和解を求めてきた現地の人々の苦闘から、祈るべき課題を探る。
(8面)
歴史を忘れるな、だが黙ってろ
パレスチナ人キリスト教徒の原体験
Photo by Maya Levin for Christianity Today
30年以上イスラエルとパレスチナでイエスをキリストと信じる人々の間に和解を築いてきたムサラハの創設者、サリム・ムネイヤーは彼の地で何を経験してきたのか―
サリムは古都ロッドで育ち二つのルールを学んだ―歴史を忘れるな。だがそれを話すな。「あれは以前は私の家だったんだ。あそこでオリーブの木やオレンジを育てていた」。父親はそう言いつつ、「黙っていろ。誰にも話すな」と警告した。
アラブ人追放の中
現在ベン・グリオン国際空港があるロッドは1948年にイスラエル軍が占領し、ほとんどのアラブ人が追放されるまで何世紀にもわたってアラブ人の多い町だった。サリムの父親は、教会に避難して居残ることができた約200人の地元キリスト教徒の一人だったが、家と農地を失った。サリムが生まれた55年には町の人口の約30パーセントがアラブ人で、残りはアラブ諸国を追われたユダヤ人移民がほとんどだった。
学校でサリムはシオニストのレンズを通して国の歴史を学んだ。あるとき教師が、サリムがいつも教えられてきたこと、つまりユダヤ人がやって来て不毛の砂漠から緑の園を作ったこと、ユダヤ人が留まるようにと説得したにもかかわらずアラブ人は去って行ったことを繰り返した。だがサリムは遠慮なく言った。「窓の外を見て。オレンジ畑が見えるだろ?あれは僕の家族のものなんだ。あの教会や家々が見える? あれはパレスチナ人のものだった」
イエスを信じたユダヤ人と聖書研究
一方で、サリムは団結がどのようなものかを早くから体験していた。70年代に彼は叔父の家でパレスチナ人とユダヤ人の両方が参加する聖書研究会に出席した。当時多くのユダヤ人がイエスを信じるようになり、サリムはヘブル語を流暢(ちょう)に話したので若いユダヤ人信者のために聖書研究を指導した。集会は数人の改宗者から100人にまで増えた。サリムはカリフォルニアのフラー神学校で学び、1985年イスラエルに戻った。
1年後、サリムはヨルダン川西岸にあるベツレヘム聖書学院で教え始めた。占領下のパレスチナ人の生活を目の当たりにしたのはその時が初めてだった。「ショックでした」と彼は振り返る。イスラエル国防軍(IDF)の兵士たちがパレスチナ人を殴り、雨の中で立たせ、子どもの前で父親を辱めるのを見た。イスラエル人の友人たち、大学時代につるんでいたような温かい人たちが、オリーブグリーンの軍服を着た得体の知れない攻撃者に変ぼうするのを見たのだ。
第一次インティファーダは87年に始まり6年間続いた。パレスチナ人は大規模ボイコット、バリケード、市民的不服従を通じてイスラエルの占領に抗議したが、多くは投石や火炎瓶(びん)のような暴力にも訴えた。
インティファーダデモに参加すべき?
ベツレヘムのサリムの教え子たちは、神学教育を超えた質問を彼に投げかけた。 「デモに参加すべきか?」「兵士に石を投げつけてもいいか?」「ユダヤ人入植者たちは神が彼らにその土地を与えたと言って、私の家族の土地を強奪した。聖書にはどう書いてあるのか?」
一方、サリムはテルアビブ・ヤッファにある聖書研究センターで、自分たちのアイデンティティーに悩むユダヤ系イスラエル人学生たちの指導も行っていた。 「ユダヤ人でありながらイェシュア(イエス)を信じることができるのか?」「キリスト教徒が何世紀も私たちの民族を迫害してきたのに、どうして私たちは自分たちをキリスト教徒と呼べるのか?」
サリムは、ユダヤ人とパレスチナ人の学生がお互いのアイデンティティーの葛藤を聞くことは有益だと考え、90年に両者の会合を企画した。
互いの葛藤を聞くことは有益だと考えたが…
異なる聖書を読んでいるよう
「大失敗でした」とサリムは言う。ほとんどすぐに、学生たちは互いに怒鳴り合っていた。両者とも、現在の出来事をどのような言葉で表現すればいいのか、意見が一致しなかったのだ。占領? レジスタンス? テロ? イスラエルの土地について聖書は何と述べているのかといった神学的な話をすると事態はさらに悪化し、会話は崩壊した。まるで両者がまったく異なる聖書を読んでいるようで、共有する物語にたどり着くことができない。
サリムは、牧師たちが集まればもっとうまくいくだろうと考えた。ユダヤ人7人、パレスチナ人7人の牧師をエルサレムの教会に招き、現在の出来事について話し合った。しかし、それはさらに悪い結果になった。そのことがサリムを不安にさせた。キリストのからだ(である教会)は、この問題に関して何か共通の大義を見出すことはできないのだろうか?
その頃、彼が聖書センターで出会った友人もまた、パレスチナ人とユダヤ人の信者の間に広がる争いに直面していた。エヴァン・トーマスはニュージーランド出身のメシアニックジューで、83年に妻とイスラエルに移住し、まだ始まったばかりのメシアニック・コミュニティーを支援していた。
かつては共に礼拝 紛争で理解不能に
第一次インティファーダ以前はユダヤ人とアラブ人が一緒に礼拝していた。だが紛争で一変した。「私たちは戦場で互いの子どもたちと向き合ったのだ」とトーマスは言う。パレスチナ人は、仲間のユダヤ人信者がイスラエル国防軍に加わり自分たちの民族に対して武器を取ることに憤慨し、ユダヤ人は、暴力的な反イスラエルとみなすインティファーダを仲間のアラブ人信者が支持することが理解できなかった。
サリムはトーマスに声をかけた。「キリストのからだが心配だ」と。世俗的グループは和平交渉や紛争解決について話していたが、和解については誰も話していなかった。クリスチャンは救いに関心があるが、彼らを分断している重大な問題に取り組む人はほとんどいなかった。サリムはその両方に取り組むために、信仰に基づいた組織を作ることを提案した。
(次週に続く)
(2024年04月21日号 01・08面掲載記事)