3月に開催された、ローザンヌ運動の若手リーダー大会「JAPAN YLG 2024」。本連載では大会の内容を伝える。今回は全体集会③で、安藤理恵子さんがマタイ4・1~11から語ったメッセージ「戦いを知る者になる」。

私たちは何を求め、何を恐れているのか
私たちが従っているのは本当は誰なのか

―誘惑というのは常に〝レベルの低い〟他人には言えない話であるものだ。キリストに従おうと思った時から、その情けないテーマにおける決断を迫られるようになる。これまで敗北してきた自分を自覚し、誘惑を誘惑として感じることは、むしろ霊的な成長の入り口ではないだろうか。
この箇所は、人間が受ける誘惑の本質と対決の模範を示している。

飢えにどのように対処しているか?

人間とは体の欲求と心の願いが連動する特別な被造物である。私たちの心の欠乏感は、自分が何を恐れ、本当は何をよりどころにしているのかをあぶり出すものだ。愛されたい、認められたい、敗北者だと思われたくない……飢えの正体が寂しさ、支配欲、虚栄心である時、それらが熱心な奉仕や献身の動機になる場合も多い。そんな私たちに「自分で手に入れればいい。神を待たなくていい」と誘惑者は励ます。その時に神に向きを変えるべきだと思い出せるかどうかが岐路である。
献身者が誘惑を経験しなくなることはない。一度勝てば大丈夫、一度赦せば二度と憎まずにいられる、ということはない。誘惑に会う度に、神の口から出る一つ一つの言葉に諭されて、神との交わりを回復しながら生きていく。自分が受けている誘惑を告白し、自分の心の深い闇の部分を神の前に広げ、キリストの光に照らされるならば、聖書の約束の通り闇の力は無力になる。
体の満足よりもさらに深いところにある本当の充足を、神は与えようとしておられる。神とは無関係な自分の闇だと諦めていた領域に、救い主を招こう。

神をどこまで信頼しているか?

「試す」には二つの意味がある。能力があるのかという面と、その人がその力を発揮してくれるのかという信頼の側面である。神は全能だと信じていても、私を助けるために動いてくれるとは信じていない場合がある。罪人は神が自分にとって良い方だとはなかなか信じない。信仰を持ってなお、献身してなお、常に信じ直し、信じ切ることを学び続ける必要がある。神はそうやって私たちの不信仰を癒やそうとしておられる。

本当は誰に従っているか?

私たちは悪魔のうそにだまされていないか。「そこまで真面目に従わなくても、、、、、、、、

2024年05月19日号 07面掲載記事)