〈新連載〉天皇とキリスト教 その歴史的考察① 守部 喜雅

権力の頂点にある存在

今年は戦後70年です。多くのメディアで、様々な話題が取り上げられていますが、その中のひとつは皇室、天皇家に関するものでしょう。

キリスト教は今まで天皇と接触したことがあったのでしょうか。日本のキリスト教の歴史を、ザビエルによるイエズス会の日本宣教にまで遡れば、それは 戦国時代ということになりますが、彼らは宣教地である日本を目指すに当たり、天皇という存在を知っていました。その宣教は成功を見たものの、豊臣秀吉はバ テレン追放令を出しますから、その後天皇とキリスト教が接触する可能性は、一気に近代まで下りますが、終戦直後の日本では、確かに天皇が急速にキリスト教 に接近したという出来事があったようです。

制度としての天皇制ということではなく、生身の人間としての天皇が、つまりどの天皇(または皇族)が、キリスト教と接点を持ったか、もしくはどの程度近寄ったか、を歴史の中に見ていこうと思います。

ザビエルの手紙①

〈1549年6月22日付、日本への途上、乗船したマラッカで、フランシスコ・ザビエルがヨーロッパのイエズス会会員に送った書簡〉

――私は二名の同僚を伴って4月にインドを発って日本に向かいました。その一人は司祭で、他は修道士で、それに、三名の日本人キリシタンが同行しました。彼ら日本人は、主イエズス・キリスト様の信仰の基礎を十分身に着けた上で洗礼を受けた人たちです。
〈中略〉
彼らの一人でありますパウロ・デ・サンタフェ(日本名・ヤジロウ)が、深いため息をついてこういうのが聞かれました。「ああ、日本の人たちよ、人間に奉仕させようとして神がお造りになった被造物を、あなたがたが、神々として礼拝しているのを悲しく思います」と。
私が彼に、なぜそのようなことを言うのか、と訊ねますと、彼は次のように答えました。「故郷の異教徒たちは太陽や月を拝んでいますが、イエズス・キリスト を認める人たちにとって、太陽や月は神によって作られた被造物であり、昼と夜とを照らす以外の何物でもありません。照らされている人間たちはこの光によっ て神に奉仕し、この地上において神の御子イエズス・キリストを賛美するものです」と。――

その日は、終戦記念日と同じ日なので覚えやすいのですが、1549年8月15日、フランシスコ・ザビエル一行7名は、坊ノ津港から鹿児島の地に上陸しました。今から450年以上も前の話です。

マラッカから出航した中国人の海賊が所有していたというその船は、途中、激しい嵐に見舞われながら、三か月もの苦難の航海の末、未知の国〈ジパング〉に着いたのです。それは期待と不安が激しく交叉した旅でもありました。
16世紀前半、ヨーロッパでは、宗教改革の嵐が吹き荒れていました。キリスト教の土台とも言える聖書の教えから離れ、堕落した教職者が信者を間違った方向 に導いていることに危機感を感じたのが司祭のマルチン・ルターでした。彼がドイツで起こした宗教改革運動は、良識あるカトリック教徒にも影響を与え、信仰 を刷新すべく多くの修道会が生まれたのです。

イエズス会もその一つでした。この修道会は、世界にキリストの福音を伝えるための道具として、自らの使命を位置づけ、創立メンバーの一人であるスペ イン人のザビエルは、1541年にポルトガル国王ジョアン三世の後援を受けてリスボンを出発、翌42年以降、インド宣教に当たりました。そして、1547 年、マラッカで日本人青年ヤジロウに出会ったことによって日本宣教のビジョンが与えられたのです。

ザビエルが来日に当たり、何よりも渇望していたのは、〈天皇〉に謁見して日本での布教の許可を得るということでした。マラッカで、ヤジロウから日本 の事情を聞いていたザビエルは直感的に日本では、〈天皇〉こそすべての権力の頂点にある存在であることを理解していたのです。(クリスチャン新聞編集顧問)

天皇とキリスト教 その歴史的考察② 守部喜雅 宗教的な権威として