サミュエル・マオズ監督:
20歳の時にレバノン戦争でレバノンに侵攻したイスラエル国防軍戦車の砲撃手として従軍。戦後はベイトツヴィ演劇学校でカメラマンとして学んだのち、映画やテレビ番組制作の演出を手がけたほか、ドキュメンタリー映画の制作プロダクションで製作補や監督をつとめる。2007年から自身初めての長編映画制作にかかり、自らの従軍体験に基づいた映画『レバノン』を完成させ、2009年の第66回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品、最高賞の金獅子賞を受賞した。

9年前の監督デビュー作「レバノン」に続き、昨年のヴェネチア国際映画祭審査員グランプリ(銀獅子賞)を受賞したサミュエル・マオズ監督の映画『運命は踊る』が9月27日よりロードショー公開される。イスラエル兵としてレバノン戦争に従軍した経験から戦争の過酷な現実を真摯に見つめるマオズ監督に話しを聞いた。【遠山清一】

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--本作『運命は踊る』の原題は『フォックストロット(FOXTROT)』ですね。1910年代はじめにアメリカで流行した、4分の4拍子、2分の2拍子の社交ダンスステップで、“前へ、前へ、右へ、ストップ。後ろ、後ろ、左へ、ストップ”と元の場所に戻って来る。どうあがいても、いくら動いても同じところへと還って来ることを暗示しているような本作を撮った動機は何ですか。

マオズ監督 私と長女の経験が一つのきっかけでした。長女には遅刻癖があって、いつも学校に遅刻しそうだと言ってタクシー代をねだりました。ある朝、私は叱って強引にバス通学させました。30分後、ニュースサイトで彼女が乗車したであろうバスが市内で爆破テロに遭ったと報じました。いくら携帯に掛けても連絡が取れません。ところが、1時間後に帰ってきたのです。なんと、そのバスにも乗り遅れたと言ってね。私にとっては人生最悪の1時間でしたが、彼女の遅刻癖はその経験をしても直りませんでした(笑)。私はその経験を掘り下げてみたかった。自分でコントロールできるものと、できないものがありますが、その細事とどう対峙していくか。アルベルト・アインシュタインがいった「偶然は匿名の神の御業である」などいろいろ哲学的なことも考えました。それが、この映画の核にあります。たくさんのヴァリエーションがあってもすべて出発点に戻るフォックストロットは、人間が運命と踊るダンスのように思えたのです。

戦争は、みんなが犠牲者

--前作「レバノン」、そして本作でも共通して反戦へのメッセージを感じさせられますが、そのような意図はありますか。

マオズ監督 はい、勿論です。ただ“戦争映画”という括り方とは違うだろうなと思っています。戦争というモチーフを使って極限状態に置き、そこから“生命とは”とか“正義とは”“自由とは”など人間が持つ基本的な価値観を試す映画になっていると思います。私が描く戦争は、善人と悪人に分かれるということはありません。みんなが戦争の犠牲者であり、みんなが負けるということを描いています。

--本作が公開されたとき、イスラエルのスポーツ・文化大臣が「イスラエルにとって有害な映画である」と批判し、右翼寄りからも非難されたと聞いています。どのようなシークエンスが問題視され。何が問題だったのでしょう。

マオズ監督 端的に言えば、イスラエル軍を批判するようなシークエンスがあるからです。イスラエルでは軍部への批判はタブーなのです。しかし、どのような人間社会であれ、より良いものを目指さなければいけないし、そういう“あがき”は大事だと思っています。その“あがき”の必要最低条件は、自己批判能力を持つことだと思います。本作では、兵士宿舎のコンテナが一日1ミリずつ傾いていきますが、社会批判した人を社会の裏切り者としてしまうのは、真実が沼にずぶずぶと引き込まれていくようなもので、いつしか自分たちも埋められたものなってしまいます。私がイスラエル政府を批判するのだとしたら、私に限らず芸術家はそうだと思いますが、そのように埋もれていくことが心配だからであり、社会が心配であり愛しているからなのだと思います。

ただ、映画作家として思うのは、ドキュメンタリーを撮っているわけではないので、客観的な事実を淡々と述べるのが私の仕事だと思っています。真実はドラマの中にあり、そこにある真実を描く、芸術の中から映し出されてくる真実というものを描くのがアーティストとしての仕事だと思っています。そもそも映画の役割というのは人々を挑発することだと思うのです。映画で社会を変えるのは難しいことであるかもしれないと分かってはいますが、少なくとも最初の一歩は踏み出したいですよね。そうするためには、みんなを刺激して言論とか論争とかに火を点けなければならないのです。まさに挑発する、そして映画を観る者の感情を揺さぶるということをしなければならないのだと思います。だから、怒らせ、ま喜ばせ、エキサイトさせるという、観る方に衝動を作らなければならないと思っています。

宗教が政治色を帯びると悪用される

--父親が、母親からホロコーストを生き延びてきた家に代々伝わる聖書を「絶対に売ってはいけない」と言っていたのに、書店でアメリカのポルノ雑誌と交換してしまっい、その雑誌を息子のヨナタンに引き継がせたシークエンスが挿入されていますが、どのような意図があったのでしょうか。

マオズ監督 映画ですのでいろいろな解釈がなされてよいと思います。私自身の意図について話しますと、あの小話は、宗教というものは文化の領域に属するべきものであって政治色を帯びさせてはならないということの象徴なのです。本来、宗教は敬意の念をもって愛すべきものですが、いまは人々に拒絶されているように思います。それははなぜかというと、精神世界である文化・宗教が、政治色を帯びると、政治家の利益追及や目的達成のために宗教本来のメッセージを捻じ曲げて悪用しているからだと思うのです。ですから、拒否反応のようなものが出てくる。そういうことの象徴なのです。

聖書は何世代もの間、家族をつないできましたが、その間、ユダヤ人は実存的な脅威にさらされてきました。でも今は、イスラエルという国があり、国情も安定してきています。ですから、聖書は聖書でリスペクトして文化的な何かとして捉え、解釈も教条として誰かに植え付けられるのではなく、自分自身の答えを導き出せるものして付き合い、生かされていけばよいと思います。ただ、いまはそれが捻じ曲げられているように思います。そのようなアレゴリーなのです。

--息子ヨナタン戦死の誤報を受けて従軍ラビが軍の葬儀を家族に説明するシークエンスがあります。イスラエル軍は、国民をユダヤ教徒と見做しているのでしょうか。

マオズ監督 イスラエルは、れっきとした宗教立国ですからね。私が気になるのは、様々な律法学者や宗教家たちに宗教の真実が捻じ曲げられているということです。
軍部に関して言うと、イスラエル軍は自らを長い歴史のなかで実存的な脅威にさらされてきたユダヤ民族だが、国が建国され、自国のイスラエル軍はそのような実存的脅威からユダヤの民を救済した天使たちであるとする見方が軍部にはあった。そのような軍部を私は批判してしまったわけですから、とんでもない批判を浴びたわけです。でも、批判の声が届かない人たちというのは、やはり腐敗していくし信条が揺らいでいくのでしょうね。今のイスラエルを見ていてそう思います。

--ありがとうございました。

映画『運命は踊る』 2017年/イスラエル=ドイツ=フランス=スイス/ 113分/原題:Foxtrot 配給:ビターズ・エンド  2018年9月29日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー。
公式サイト http://www.bitters.co.jp/foxtrot/