2018年10月28日号 02面

私は、滋賀県東近江市にある知能に重い障がいがある仲間の施設「止揚学園(しようがくえん)」の園長をしている福井生(いくる)といいます。 止揚学園は今年で創立56年を迎えました。これまで共に生活する歳月の中で、私たちはいろんなことを経験し、その一つ一つと真剣に向き合い、家族のように毎日を過ごしています。
この日々の中で最近思うことがあります。これからの仲間たちとの未来はどうなっていくのかということです。今日現在、障がいがあるとされ、弱い立場に立たされている仲間たちに、「障がい」というハードルを作り出しているのはほかならぬ私たちです。仲間たちにとって新たな「障がい」が現出し、仲間たちの生きる意味を問われるような、そんな未来でないことを私は願い、その願いは祈りへと変わっていくのです。
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祈りは希望です。祈りのうちに不安は和らぎ、明るい希望が与えられます。私は新たな気持ちになり、あるお母さんからいただいた手紙をもう一度読み直しました。娘さんには知能に障がいがあります。その手紙にはお子さんの学校生活のことが認(したた)められていました。
お子さんの学校生活は皆様の優しい心に包まれて温かいものだそうです。ところが、その手紙は読んでいて、気持ちを和ませてくれるはずのものなのに、文章の所々にお母さんの不安を感じてしまうのです。
朝、髪に可愛いリボンを結ぶとき、どうかこのリボンに気づき、クラスのだれかが話しかけてくれたらいいな、とお母さんは願われます。
上靴を洗いながら、学校の階段で転びませんように、と願われます。
お子さんの通っておられる小学校であれば、だれかが声をかけてくださり、階段でもだれかが支えてくれるでしょう。しかし、学校の外ではどうでしょうか。すべての人が優しい思いを持ってくれるのでしょうか。DSCN0646
お母さんは、不安を熱い涙で打ち消し、願われるのです。どうかすべての人々の眼差(まなざ)しが、優しくお子さんを包んでくれる社会でありますように、と。
社会という大きな流れの中で、自らの非力さを感じ、それでも生命を守るために立ちあがらなければならないとき、人は願いを超えて、祈ることを始めます。お母さんはすべての人々を信頼し、その願いは祈りへと変わるのです。
障がいがないとされる私たちも、だれもが幸せを感じられる社会の到来を祈ります。しかし私たちの流す涙は、どれほどまでに熱いのでしょうか。

ここ数年、特に知能に重い障がいがある人たちの入園を希望されるご家族の来園が増えてきています。この方々の生活をする場が減少しつつあるからです。
現在社会は、競争をして一番になるよりも唯一の自分を大切にしようとする傾向があります。以前に比べて競争することだけがすべてではないとする社会は良いものなのかもしれません。しかし反対に、その唯一の自分の殻に閉じこもり、今そこに起こっている悲しい状況に向き合おうとしない無関心さを感じてしまいます。
人は一人では生きていけません。人と人のつながりの中にあって、支え、支えられて、はじめて唯一の自分が存在することができます。その繋がりの中に、知能に重い障がいがある人たちもいます。
止揚学園の仲間たちは、目に見える生産性において成果をあげることは難しいのです。ある人たちはこの生産能力の有無で人の生きている価値さえ決めようとしています。今本当に恐ろしいことが起こっているのです。
止揚学園の仲間たちとの日々の中で、仲間たちの笑顔のうちに優しい声が聞こえてきます。この社会には、特別な人など存在しない。みんな同じ生命を与えられていて、生命でつながっているのだ、と。あとは支え合うことがあるだけなのだと、その声をはっきりと聞くことができます。その笑顔の根本は熱い涙です。だからその声は祈りです。希望です。
これから月ごとに文章を掲載いたします。その中に仲間たちの笑顔の輝きを共に感じてくださればこれほどうれしいことはありません。(毎月第4週号に掲載)