2019年01月06・13日号 06面

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上=神戸に来たユダヤ難民にリンゴを配る支援の牧師ら

下=ユダヤ人に「命のビザ」を発給し続けたリトアニア総領事代理の杉原千畝

1940年から41年にかけて、ナチスの弾圧を逃れた約6千人のユダヤ人がシベリア鉄道終着点から船で福井県敦賀市に到着、うち約5千人が神戸を経由して安全な国に逃れて行った。それ以外の人々の多くは横浜に向かったという。太平洋戦争直前の不穏な時代に、住む国を追われたユダヤ人に、多くの日本人が温かい手を差し伸べた。それから約80年が経過する今も、難民の子孫やそのことを知ったユダヤ人が、感謝の思いを込めて神戸を訪ね、足跡をたどって当時を偲ぶという。【藤原とみこ

たった一人を救ったら全世界を救ったことになる

 神戸のユダヤ難民の足跡をたどるツアーを実施して喜ばれているのは、イスラエルと日本の友好と宣教活動に尽力する「シオンとの架け橋」代表で聖書研究会の石井田直二牧師・雅子夫妻。当時神戸に来たユダヤ難民について研究し、神戸市内に残る足跡を案内することを目的とした神戸ユダヤ難民研究会の設立を準備中だ。

 2018年11月26日に「神戸に来たユダヤ難民の足跡を訪ねて」と題して行われたツアーとセミナーには、当時難民支援活動をした斉藤源八牧師の孫の真人氏(社会福祉法人ぶどうの枝福祉会・ゆりか認定こども園園長)、瀬戸四郎牧師の孫の偉作氏(基督兄弟団・尼崎教会、カナン教会牧師)、同瀬戸賛美子氏、エルサレムで活動するユダヤ人聖書教師のヨセフ・シュラム氏、福井県敦賀市から敦賀市産業経済部人道の港発信室室長の西川明徳氏と主事の畑中亜美氏が参加した。

 敦賀港は1902年にロシアのウラジオストック間直通航路が開設されて以来ヨーロッパへの玄関口となり、さらに東欧からの難民を受け入れてきた歴史がある。人道の港発信室が運営する資料館「人道の港・敦賀ムゼウム」では、ほとんど着のみ着のままで日本に逃れてきたユダヤ人に銭湯を開放し、食糧を配るなど、手厚くもてなした人々の記録を見ることができる。

  「命のビザ」手に敦賀から神戸へ

 1940年、リトアニア日本領事館の杉原千畝(ちうね)総領事代理は、外務省の命に背いて約6千人のユダヤ人に日本通過ビザを発給した。この「命のビザ」を手にした人々は、シベリア鉄道でウラジオストックに到着後敦賀に向かった。現在のJTBが、在米ユダヤ人協会の要請で、40年9月から翌年5月まで続いた逃避行のルートを仲介し輸送を担った。

 敦賀で一息ついたユダヤ難民は、当時ユダヤ人共同体のあった神戸に鉄路で向かった。

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写真=上から、当時の面影を残すJR三宮駅。ユダヤ難民は福井県敦賀市から神戸の三ノ宮に着いた。ユダヤ人コミュニティセンター跡付近に残る石垣は当時のまま。ユダヤ難民が世界各地に旅立った神戸港第四突堤のターミナルビル

 難民の足跡をたどるスタートは、今も当時の面影を残すJR三ノ宮駅。多くの在日ユダヤ人や日本人に迎えられたユダヤ難民はJEWCOM(略称)というユダヤ人共同体の活動拠点だった建物に向かったと思われる。その建物の横にあった石垣が、現在、神戸電子専門学校の敷地に残る。神戸を再訪したかつての難民ピーター・バルーク氏は、子ども時代の記憶に「この石垣は確かにあった」と証言している。

 ここはキリスト教会が支援組織を作ってユダヤ難民救済活動を行った場所だ。ホーリネス教会の牧師だった斉藤源八氏や瀬戸四郎氏らは、ここで難民たちの救援物資の配布等必要な支援を行った。斉藤家のアルバムには、牧師ら支援者が難民にリンゴを配る写真が残っている。

 難民たちは市内各地の建物に分宿していた。情報を求めてJEWCOMを訪ねていた人々のうち、東部に宿泊した人たちが使ったバス停のあった場所がある。神戸市がユダヤ難民救済の歴史編纂に取り組んだ際に、市民から「多くのユダヤ人たちがそこでバスを待っていた」という情報提供があったという。この取り組みの成果は神戸市文書館で見ることができる。残された写真や手紙、難民の滞在場所や人数などを調査した貴重な資料から、当時のユダヤ人の状況に触れ、日本人との温かい交流も偲ばれる。

 やがて難民たちの多くは神戸港から世界各地に旅立って行く。現在の港には、ほとんど当時の面影はないが、ユダヤ人たちが立ち寄ったとされる古いターミナルビルが残されている。当初、多くが目指していた国は北米だったが、すぐに渡航困難となり、中南米やアジア、アフリカを目指すようになる。41年初秋、最後の約千人の難民は、日米開戦が迫る中、大半が上海に移送され、そこで終戦を迎えたという。

イスラエルのため祈り続ける 

 神戸市のSKK会議室で開かれたセミナーで、斉藤真人氏は祖父の記憶を語った。

 「祖父からは話を聞いたことはなく、父からおじいちゃんはユダヤ人を助けたんだよと、聞いていました。朝日新聞のユダヤ難民救援の取材を契機に、アメリカのホロコースト博物館のボランティアをしている人から連絡がありました。日本人に感謝している、お礼を言いたいと神戸に来られたのです。ユダヤ人は恩義に厚く、受けた恩を子孫に伝えていく民族です。亡き伯母は当時のことを覚えていて、よくユダヤ人が住んでいる所に遊びに行った、楽しそうにダンスをしていた、渡航のときは見送りに行った、と話していました」

 瀬戸偉作氏は祖父の四郎氏がユダヤ人の救いのために祈っていたのを覚えている。祖父亡き後も、祖母は「ホロイチさんの上に神様の恵みがあるように」と祈っていた。何人も外国人の名前をあげて祈っていたという。その後「ホロイチさん」は、かつて自宅を訪ねたユダヤ人ホロヴィッツさんだとわかった。祖母は戦後30年もの間、親しかったユダヤ人のために祈り続けていたのだ。

 「神戸の最後の別れに、祖父は難民の方々と抱き合って別れを惜しみました。42年6月に始まったホーリネス系牧師の弾圧の直前でした。ユダヤ人の入出国は、ベストタイミングだったのです。80歳を超えた祖母の口を用いても祈らせる神の召しを思いました。教会でもイスラエルのために祈り続けています。年間多くのユダヤ人が来日している今こそ、ベストタイミングかもしれません」

 ヨセフ・シュラム氏は「世界大戦中ユダヤ人を命がけで助けてくれた人たちがたくさんいます。そんな方々を前にすると、とても謙遜な気持ちになります。ユダヤの格言に『たった一人を救ったら全世界を救ったことになる』ということばがあります。私たちはこちらのおじい様方のように、犠牲を払って人のために働くべきではないでしょうか。今も世界には難民があふれています。そうした人々を何らかの形で助けていきましょう」と、呼びかけた。

 石井田夫妻と共に神戸ユダヤ難民研究会設立を準備している瀬戸賛美子氏は「我が家のルーツを調べることで、石井田先生や敦賀の方々とつながりました。あまり知られていませんが、日本人は昔から海外の難民を助けてきました。これらの事実を将来に語り継ぎたいと立ち上げるものです」と、説明した。

 事務局を担う予定の石井田雅子氏は、「ツアーガイドやユダヤ難民についての研究に取り組みたいと考えています。イスラエルのために長年祈ってきた教会です。ここから始動したいと願っています」と話していた。