川崎殺傷事件 未然に防ぐには 「愛されている」伝えてこそ 寄稿・碓井真史 新潟青陵大学教授

ミッションスクールのカリタス小学校で悲劇が起きた。いたいけな少女が殺害され、外交に活躍する男性が刺殺された。多くの子どもたちが重軽傷を負った。カリタスとは、神の愛アガペーを表すラテン語だ。神の愛する人々が被害にあった。どれほど怖く、どれほど苦しかったことだろう。容疑者の男(51)は、その場で自殺した。
男は、両親が離婚後に祖父母に引き取られ、祖父母が亡くなったあとは、いとこたちと共に叔父夫婦に育てられた。いとこたちは、私立カリタス学園を卒業している。男は公立小中学校を卒業後に職業訓練校に進んだが、ひきこもり状態だったと報道されている。
一度に大勢の人を襲う大量殺人者は、孤独と絶望感に押しつぶされた人だ。自分の利得のための犯罪ではない。逃亡も考えていない。自分を無価値だと思い込み、こんな自分にしたこの社会も最低だと感じ、周囲を巻き込む「拡大自殺」として犯行に及ぶ。彼らは人生を少しずつでも良くしていく希望を失っている。そして人生の最期に、自分を受け入れなかった社会に復讐し、自分の偉大さを示す大逆転を狙うかのように、世間を驚愕(きょうがく)させるため銃を乱射し、包丁を振り上げる。
容疑者の男にとっては、カリタス小学校は愛と成功の象徴だったのかもしれない。彼も、本当は愛されたかったのかもしれない。人生を輝かせたかったのかもしれない。
アダムは、エデンの園で最高の豊かな自然と動物たちに囲まれていた。しかし、彼にはふさわしい助け手はいなかった。「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2・18)。人には人が必要だ。これは、時代を超えた真実だ。神は人を「エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」(創世記2・15)。人間にとっての楽園とは、仕事をせず、一人で安楽に暮らしている場所ではない。お金も物も大切だが、最高の物があってもそこは楽園ではない。愛されて、信頼できる仲間がいて、与えられた使命を果たす役割がある場所こそ、楽園だ。
容疑者の男は何を考えていたのだろう。衣食住はあった。だが仕事もなく、友人も、行きつけの店もなく、趣味やボランティアの仲間がいるわけでもなく、インターネットでの交流さえなかった。80代後半となった叔父叔母とも、同じ家に住みながら交流は途絶えていた。
安易に加害者をかばうことはできない。殺人は凶悪な犯罪だ。しかし、このような恐ろしい犯罪を未然に防ぐためには、どうしたら良いのだろうか。逮捕も死も恐れない大量殺人者には、防犯カメラも死刑さえも犯罪抑止の力を持たない。
加害者への憎しみも非難も、当然だろう。だが犯人をなじり、同じ思いを持つ犯罪予備軍を激しく罵ったとしても、彼らをさらに追い詰めるだけで、犯罪防止にはつながらない。大量殺人を考える人を止めるのは、あなたも一人ではないし、あなたも愛され、あなたにも希望があると伝えることだ。その真実に目を開かせることだ。
神は子どもたちを愛していた。亡くなった可愛い少女のことも、有能な男性のことも愛していた。そして、こんなことを言うのは被害者のことを考えると胸が痛むが、しかし無価値なものさえ愛するアガペー(カリタス)の神は、包丁を振り上げたあの男のことも、きっと愛していたに違いない。