ホイートン大学ブロック氏講演「エゼキエル8章」 愛ゆえに「ねたむ」神 聖書考古学資料館講演会

聖書考古学資料館による公開講演会「エゼキエル書8章と偶像崇拝」が、7月6日東京千代田区のお茶の水クリスチャンセンターで行われた。講師は米国ホイートン大学教授のダニエル・ブロック氏。エゼキエル書の注解書の執筆など、エゼキエル研究で著名な講師が、バビロニア捕囚期の預言者エゼキエルに示された幻から、特に8章において描写される偶像礼拝の実態を、考古学資料からの知見を交えて解説した。

エゼキエルは紀元前6世紀の預言者である。ネブカドネツァルによりエルサレムが包囲された後、ユダヤ人は三つの場所にいた。エジプトの小さなグループとユダヤの残りの民と捕囚として連行されたバビロンである。他の1万人と共にバビロンに住んでいたエゼキエルは、自分の国ではない土地で預言をした者であり、言語、表現、語彙、文学的修辞法、歴史の捉え方に至るまで、すべての面でバビロンの影響を受けている。彼の世界を理解しなければ、エゼキエル書を理解することはできない。預言者の見た幻はすべて紀元前6世紀の時代背景を反映している。ここで考古学が助けになる
エゼキエル書の第一神殿に関する幻は、次の構造を取る。
8章=ユダの偶像崇拝
9章=判決の言い渡し
10章=判決の執行
11章=幻の結論
ここでのテーマは「主はこの地を見捨てられた」。それを、主を裏切った者が語る(8・12、9・9)。そこで展開されるのは、主の栄光が神殿を去る幻であり、その原因はイスラエルの罪である。主が神殿を見放されると、宮は、エルサレムはどうなるのか。
考古学から分かる一つのことは、当時の古代オリエントにおいて、神殿というのは人々が礼拝するために集う場所という以上に、神が住まわれる場所という大切な位置づけがあった、ということである。異教の神々の習慣によると、神殿の一番奥まった至聖所と呼ばれるところには神々の姿を模した像が置かれていた。人々は、自分たちの幸福や繁栄が、神々が共にいてくれることにかかっていると信じていた。そういう意味で、神殿は神学的なメッセージを発していた。もしそこに神がおられるなら、神殿は自分たちの安全の象徴となる。
そのために、人々は神々を喜ばせることになる。たとえばいけにえによって神々に食事を供し、いろいろな世話を偶像にすることによって、神々のご機嫌を取りつづけていれば、神々は自分たちを祝福してくれる。いわば、天の資源と地がつながる接地点が神殿であり、そこで行われる祭儀の中心的な考え方は、神を喜ばせること。いつも怒っている神を笑顔に変えること。神をぞんざいに扱うなら、神は怒り、雨を枯らし、作物を実らせない。そしてその場から去ってしまう。
それが政治的、軍事的に反映した行為が、他国の侵略に見られる。敵の都を攻め登る時、城壁を破って最初に行くのが神殿である。神聖な場所を侵し、そこにある神々(の像)を持ち帰る。そこには、我々の神の方がお前の神より強いという、神学的なメッセージがある。神がそこからいなくなると、神の守りは失われ 敵はほしいままに振る舞う。このような考え方は紀元前三千年紀に遡る。シリア北部の都市アレッポのさらに北に残るアイン・ダラ神殿は、ソロモンの神殿に最も近い形態であったかと言われているが、その遺跡には、巨大な神の足跡(足型)が、神殿の入口から内側に向いて、彫られている。神がそこに入り、とどまるという、人々の希望がそこに見て取れる。
その時代にあって、エゼキエルは幻のうちにエルサレムの神殿へと連れて行かれる。8章で語られるのは、主がなぜ怒っており、宮を去ろうとするのか。古代社会ではよく知られたモチーフである。彼らにとって神々から見捨てられるということは、非常に恐ろしいことであり、エゼキエルの周囲にいた異教の人々は、このテキストの文脈を完全に理解したであろう。エゼキエルはそこで主の怒りを招いた四つのものを見せられる。(下図参照)

❶忌み嫌うべき像(3~6節)
北の方の祭壇の門の入口の「ねたみ」という像。実際どのような像か分からないが、このヘブル語は2回しか使われておらず、フェニキヤ語では石に刻まれた像に関して用いられている。この「ねたみ」の意味は、「うらやむ(envy)」よりは、「熱心(zealous)」に近いものだと思われる。夫が自分の妻の貞節が犯されたときに烈火のごとく怒る、その感情。なぜなら夫は妻を愛し、宝のように思っているからだ。主がご自身を「ねたむ神」という言葉で表現する時、それは常に偶像崇拝との関係において用いられている。エゼキエルが見せられた像は、何らかの神々であろう。これらのものがイスラエルの主への信仰、愛を剥ぎ取ってしまうが故に、主は怒るのである。

❷忌み嫌うべき行い(7~13節)
窓やドアのない暗い部屋で、イスラエルの70人の長老が、それぞれの神々の前に立って香をささげている。神々を喜ばせるためであろう。ウガリット神話の最高神イルの妻アシェラは創造神で、70の神々を産んだことから、ここでの70は象徴的にあらゆる神を表していると考えられる。しかもそれを行っているのは長老たちで、彼らは本来神殿にいるべき人ではない。神殿で仕えるのは、任命された祭司である。彼らの中に「シャファンの子ヤアザンヤ」も立っていた。ヨシヤ王の書記であったシャファンには、彼のほかに3人の息子がいた。エホヤキム王の迫害からエレミヤを守ったアヒカム、バビロンに捕囚となった人たちにエレミヤの手紙を届けたエルアサ、エホヤキンがエレミヤの巻物を焼くのを止めようとしたゲマルヤ。3人ともエレミヤの友である。一方でこのヤアザンヤは神々に香を炊いていた。

❸タンムズのために泣く女(14、15節)
ヘブル語原文からは「タンムズ泣く」と訳すべきか。聖書ではここにしか出てこない名前だが、シュメールの王名表によれば、大洪水前の牧神であり、3万6千年地を治めていたとある。死と再生を繰り返すタンムズは、年毎行われる豊穣儀礼の中でとても重要な役割を担っていた。女が神殿で「タンムズを泣く」のは、異教徒にとっては神々が死んだときの哀歌を表す表現になっていたのではないか、と私は考えている。彼らの神が死に、それを泣いているというのは、異教の儀式が主を礼拝することのなかに導入されている、ということなのではないか。もし自分の神が死んだということであれば、先ほどの70人の長老が70(すべて)の神々を拝んでいるというのは、意味が通る。神々は私たちを助けてくれる存在だとしても、どの神が助けてくれるかは分からないのだから、確実にいずれかの神が助けてくれるように、すべての神を拝む、ということではないか。

❹天体への信仰(16節)
主の宮の内庭、神殿の入口で東の方を向いて太陽を拝んでいる。エゼキエル書40章に記された神殿の記述から考えるに、全体が正方形の壁で囲まれている宮は、東側の壁中央に外門があり、そこから内側に向かって東西の軸上に神殿の入口があり、祭壇があり、神殿があった。つまり、この人たちは神殿に背を向け、尻を向けて、太陽を拝んでいるのである。この時代のイスラエル人は、主への礼拝を太陽神に置き換えてしまった。主を捨てたのである。

主は、17、18節でイスラエルの民の振る舞いを「わたしの鼻に木の枝を突きつけて」(新共同訳)と言っている。さまざまに解されるこの表現が、具体的に何を意味しているのかは分からないが、相手に対して人々がする最も不快なことの象徴であるということだけは言えるだろう。主はさらに「わたしはあわれみをかけない」「わたしは彼らの言うことを聞かない」と言われる。「ヤアザンヤ」のヘブル語での意味は、「主は聞く」「主が聞かれるなら」である。イスラエルがそのように望んでも、もはや主は「聞かない」。
紀元前586年のエルサレム陥落は間近に迫っていた。その時ネブカドネツァルはイスラエルに対してほしいままに振る舞ったが、それは主がそこを離れたということ以上に、主がネブカドネツァルを用いてご自身の思い通りにしたということである。エゼキエルを通して、主は愛と熱心のゆえに何度も警告を発した。契約は祝福と呪いである。さばきは神のわざである。多くの祝福を施してくれた主に、彼らはこのようなことをすべきだっただろうか。それも主の家で。そのことに、あなた自身も怒りを覚えないだろうか。