沖縄の今を通して「平和」を考える 対談 沖縄で語る賛美の力 最終回

 9月12日、普天間バプテスト教会(沖縄バプテスト連盟)牧師の神谷武宏氏と菅生キリスト教会(日本福音キリスト教会連合)牧師の中山信児氏によって行われた対談「平和と賛美」の連載の最終回。

 神谷氏は米軍普天間飛行場(基地)のゲート前で毎週ゴスペルを歌う「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」を指導し、その活動記録『ゴスペルのぬるしをあげて』が出版された。中山氏は福音讃美歌協会理事長である。

 園児の祈りに衝撃を受けた

 中山 「ゴスペルを歌う会」が始まったきっかけは。

 神谷 2012年にオスプレイが配備されたときです。その年は9月9日に県民大会があって、10万3千人が集まった。沖縄の人口の一割近くです。自民党政権寄りだった当時の仲井眞知事をはじめ、ほかのすべての首長がノーと言った。それでも配備された。そのときの屈辱感。私も座り込みに参加し、ごぼう抜きにされた。そのとき怒りをもって神様に祈った。「あなたはどこに居るのか。沖縄の民の叫びを聞いておられないのか」と。その時出エジプト記3章9節の御言葉が思い出された。「人々の叫び声がが、今、わたしのもとに届いた・・・彼らを圧迫する有様を見た」と。そうだ聞かれているんだ、と思った。その次に語られたのは「あなたが行きなさい」というモーセに語られた言葉。私が神様にボールを投げたら、神様が投げ返してきた。それを私は受けてしまった。それがひとつのきっかけです。

 その週に運動会が保育園であって、本当にその日はくたくただった。オスプレイもすでに配備されていた。運動会では、園長が最初にあいさつとお祈りをする。オスプレイのことに触れようかと思ったが触れなかった。触れる勇気がなかった。「祈って飛んだらどうしよう」と思って。でも運動会が終わって最後に父母会長さんがあいさつをした。「今日はオスプレイが飛ばなくて良かった。運動会が守られた。実は今朝うちの息子がお祈りしたんです、『オスプレイが飛びませんように』って」

 衝撃でした。自分には祈る勇気がなかった。5歳の子の祈りにガツンとやられた。自分は祈りをおろそかにしていたと思い知らされた。祈ろうと思った。祈りの伴うことをしようと思った。そしてその次の日曜日に、「オスプレイ配備に対するノーの行動をしていきます」という説教をし、そして行動してきたのです。

 中山  祈りが聞かれたのか、聞かれなかったのか、はっきり分かるような純粋な祈り方を幼い子がしたというのが衝撃的です。私たち牧師ですけど「聞かれるような祈り方」をしちゃうようなところがありますね。

 神谷 一歩踏み出すのは勇気がいることです。ゴスペルを始めたときも、「誰も来なかったらどうしよう」とか。でも同じような思いの人はいて、旗を揚げると結構集まってきた。「教会の牧師には言えないけれど、こっそり来ました」みたいな人も。

 中山 そういうことは、どこでもありますよ。フランシスコの「平和の祈り」が賛美歌になっていますが、今、福音理解が問われてきていると思う。神様と罪が分かれば、そして十字架が分かれば救いは完了、と言うことではない。それは地上に神の国をもたらしていくことだし、一人一人が欠けることなく満ち足りている状態がシャロームだとすると、それは神様にしかできないし、それがあるのが救いであり福音。その中には当然、神、罪、救いも内包している。それくらい福音は豊かなものでしょう。賛美歌のことばは切り詰められているが、歌うたびにそこに込められている深い意味合いを発見しながら、歌っていく。

 神谷 「ゴスペルを歌う会」では、毎回慰めを受け、勇気を受ける。80代の人、戦争を体験した人もいる。クリスチャンだけでなく、僧侶の方も。ある方は、宗教とは関係ないのだけれど、私たちがここで歌っているのをずっと見ている方がいる。ご年配の方で、娘、孫と3人で一緒にゴスペルを歌う会に来た。「私は基地が作られる前の、この地域のこともよく知っている。すごくきれいかった。その土地を取り戻そうとして、皆さんが歌っているのにいつも励まされながら、自分は参加できていなくて申し訳ないので、孫も連れてきた」。ある方が「これは現代の路傍伝道だ」と言った。ある人は「ここは礼拝ですよ」と。祈りがあり、賛美があり、メッセージもあります。

 聖歌隊ではないのですが、招かれて歌うこともあります。読谷に「恨之碑」というのがある。強制連行で連れて来られた朝鮮の何千という人たちの追悼式に毎年招かれて賛美歌を歌っている。そこではお坊さんの読経もあります。

 6月23日は沖縄では慰霊の日で、慰霊祭は平和記念公園で行われますが、市民グループは、摩文仁の「魂魄の塔」の前で「国際反戦平和集会」を行います。いろいろな人が、歌ったりスピーチしたりして、2時間半くらいのプログラムですが、ほぼトリの2番目くらいで歌う。もう4、5年、毎回招かれている。これが続けられているのはすごいこと。まさに民衆とともに歩ませてもらっていますし、それは本来キリスト者がやるべきことでしょう。教会で、クリスチャン同士だけで、というところを越えていかないと。痛みを覚える現場の中でその思いが共有されるのは素敵なことだと思う。

 中山 イエス様は自分から出かけていかれた。

ゴスペルがみんなの歌になった

 神谷 クリスチャン以外から、賛美歌を歌ってくれ、と言われるのは、クリスチャン冥利に尽きます。私も最初は遠慮がありましたが、一度歌うと、もっと歌ってとなった。辺野古では歌詞も配ってみんなで一緒に歌う。最初に辺野古で歌ったときに、沖縄平和運動センターの山城博治さんが、みんなに紹介しましょうと言って、「今日は普天間から“オスプレイ”を歌う会が来ています」(笑)。それが最初の出会いです。そこで「勝利を望み(We shall overcome)」を歌ってから、辺野古でもみんなが歌うようになった。

 その後、山城さんが最初に拘束された時ですが、その日は県民集会をやる日で、朝から100人以上が集まっていた。基地のゲート前で行動していた人たちが基地の中に入りそうになったので、それを後ろに下げようとして山城さんが前に出て行った時、基地敷地内の黄色い線を踏んだと言って、中の警備の人たちが出てきて、山城さんを基地の中に引きずっていったんです。

 それを見て、みんなカーッとなって今にも山城さんを助けようとして動き出さんばかりの雰囲気になりました。でもそれをやったら、彼らの思うツボで全員逮捕されます。その時ある人が「勝利を望み」を歌い出した。それが大合唱になって、みんなが冷静になり、踏みとどまった。山城さんはそれを、ひきずられながら見ていたと言っていた。

 実は私はそこに居なかったのですが、3日後辺野古に行ったら、ちょうど山城さんが解放されたときで、山城さんが来て、「神谷さん、ありがとうね。あなたが“勝利を望み”を歌ってくれて、ありがとう」って。私はその場に居なかったのだけれど、すごくうれしかった。「勝利を望み」が私の歌でもゲート前ゴスペルの歌でもなく、みんなの歌になった。辺野古の歌になった。

 中山 賛美が持っている力ですね。米兵だってきっと分かりますよ。その歌がどんな歌か知っている。

 神谷 そのとき、辺野古で始めてよかったなと思った。

 中山 同じことは、辺野古の米兵だけでなく、普天間の基地の中に居る、兵隊の家族や、保育園に調査に来た若い官僚、政府要請行動に言った時に対応する官僚たちの心に、きっと響いているのではないでしょうか。神谷先生たちが基地のゲート前でゴスペルを歌うという行為自体は、一見先鋭的に思えます。でもその底にあるのは、命を守るため、平和のため、正義のため、ということでしょう。

 神谷 牧師としての一つの思いは、これ以上罪を犯さないでくれ、ということ。それは大事なメッセージだと思っています。

 中山 「ゴスペルのぬるし」、その狼煙(のろし)が「本土(ヤマト)」でも上がるように。

 神谷 呼応してくださることに慰めと勇気が与えられます。(終わり)