「あいち以後、五輪前」問う 公共、芸術を考える 「不自由」とコモンズ(共有地)への応答①

写真=イベントの多くは動画配信に

 「あいち以後、オリンピック前」を意識した、演劇と社会をつなぐプロジェクト「シアターコモンズ ’20」(TCT20)が2月28日〜3月6日に東京で開催された。「あいち」とは昨年愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(以下「あいトリ19」)のこと。シアターコモンズに関係する作家らが「あいトリ19」に出品参加していた。TCT20では、「あいトリ19」を踏まえ、「聞くことのポリティクス−分断と不和を乗り越えるために」というテーマで、多数の演目(演劇、トーク、ワークショップ)によって、芸術と社会、公共、政治、テクノロジーと人間の関係を問う内容となった(コロナ禍によって一部をのぞき、演目はオンライン配信)。「あいトリ19」にもTCT20にも、キリスト教から応答したいテーマを見ることができた。それらの議論や表現を追ってみたい。

   §   §

 私たちは日に日に「不自由」を感じている。新型コロナ感染拡大によって、仕事、学校、公共施設、レジャー施設、教会も含め、様々な会合やイベントが閉鎖・中止。マスク着用、手洗い、消毒、換気が義務になり、人と面と向かって話すことも減った。世界の膨大な感染者、死者数、経済の縮減、政治の混迷のニュース(情報)を見るにつけて、恐れや怒り、悲しみ(感情)に包まれる。お互いの態度や行動を「監視」し合う状況だ。強大な権力で、人々の行動を逐一規制する国家もあるという。

 インターネット、SNSの発達によって、ますます「情報」と「感情」の波が沸き立つ。このような「情の時代」を「あいトリ19」はテーマにしていた。それは展示にとどまらず、実際の社会で「情」をかき乱す事件となった。

 展示の一つ「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)を標的に、様々な個人、勢力から「電凸(でんとつ)」や脅迫、一部行政の首長や政府からの妨害があった。不自由展中止に異を唱えた、他の一部作家も自らの展示をボイコットした。この状況に対して展示再開を目指す作家らが動き、「ReFreedom_Aichi」の活動に結集した。対話集会、レクチャー、電凸に作家ら自身が応対する「Jアートコールセンター」(代表の高山明氏は今年3月に芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。皮肉な展開)など、それぞれをアート作品として実施した。会期末に「不自由展」は再開したが、文化庁が「あいトリ19」への補助金不交付を通達。今年3月に減額で補助金が交付(水面下で愛知県と文化庁の交渉があったらしい)されたが、不交付決定のプロセスの不透明さ(政権の介入の疑い)、社会と芸術の関係などに問題を残した。日本の様々な社会問題を浮き彫りにした事件だった。今年9月開催予定の「ひろしまトリエンナーレ」は開催前から同様の問題が発生し、開催が危ぶまれている。

    §   §

   「あいトリ19」では「情」の英訳に“Passion”を当てた。Passion は受動、情熱、受難、Compassion(情け、憐れみ)につながる意味がある。「あいトリ19」のコンセプト文では、情報と感情の衝突(苦難)に対して、ローマ書5章4節を引用して、忍耐、練達、希望の必要を述べていた。希望にいたる練達の中で、「技」が生まれる。先のコンセプト文で言うようにアートはもともと幅広い「技」(テクネー)を意味していた。

 アートとキリスト教、宗教は元来重なり合っていた。言葉にしきれない信仰を表現する技を通して芸術が生まれ、芸術を高めるためには、宗教性が必要になる。それは旧来のキリスト教美術だけではない。美術史家でプロテスタント信徒の宮下規久朗氏は、近代、現代の美術の背後にある宗教性に注目し、「真に優れた美術はつねに宗教的」(『美術の力 表現の原点を辿る』光文社、2018)と言う。さらに現代アートについて、プロテスタントの詩人、ジャーナリストのスティーブ・ターナーは既成の思考方法を超えて現在を生きながら未来に生きるとという「預言的」な役割を指摘。「権力者の虚偽を糾弾したり、不正を暴いたり、一般常識とされている行動パターンを生み出す、特に根拠もない既成概念を突き崩」(『イマジン−芸術と信仰を考える』いのちのことば社、2005)すと述べた。

 本連載では、公共や民主主義の課題にも触れる。アートは多様な表現によって、理性的な言語的対話を想定する「市民社会」の限界を示し、社会を補完する役割があった。ドイツ文化相が、コロナ危機の中で文化芸術支援を発表し、「創造的な人々の創造的な勇気は危機を克服するのに役立つ。アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要」と語っていたことは印象深い。(つづく)【高橋良知