「聖書信仰」に礎を置く 創立70周年記念特集 いのちのことば社物語 第3回

写真=「聖書信仰運動」は当初から戦前の教会のあり方への悔い改めに立ち、国のあり方を注視してきた

 

〝神のことば〟を生活の規範に国家・社会の問題も幅広くカバー

敗戦により荒廃した日本の精神的復興のため「千人の宣教師を送れ」と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が米国のキリスト教会に要請したという逸話がある。それに応えて続々と来日した宣教師たちの多くは保守的な福音派を背景としていた。
福音派の身上は、全世界に出て行って福音を宣べ伝える宣教のパッションである。その現れとして、多くの宣教団体や宣教師が日本各地に開拓伝道を開始するとともに、放送・文書・学生・青少年など多彩な分野の伝道団体を立ち上げた。いのちのことば社の創立もそのような動きの一環であったことは、本欄の初回で述べた。
その福音派の関心事の中で伝道と並んで大きな位置を占めるのが、聖書をすべての物事の規範とする「聖書信仰」である。これは20世紀に影響を強めた自由主義的(リベラル)な神学に対し、聖書を「誤りなき神のことば」と信じ、「信仰と生活の唯一の規範」として尊重する信仰の立場。いのちのことば社は創立以来、今日まで一貫してこの「聖書信仰」に立ち続けてきた。
「聖書信仰」という言葉は一部の主流派の人々から「学問(神学や科学)よりも信仰を重んじる」「神を信じるのでなく聖書を絶対視する」などと揶揄(やゆ)されることがある。しかしそのような偏見に反して、実際の聖書信仰は、旧新約聖書に描かれた信仰の態度を踏襲するものだ。それはキリスト教会の歴史を通じて受け継がれ、プロテスタント宗教改革によって再確認された。そして、人が理解できる合理性の下で聖書を解釈しようとする20世紀の人間中心主義的な思潮に対して、神の霊感によって書かれた「神のことば」としての聖書に権威を認め、その事実性を重視して真理を追究する。したがって、聖書が原典において何を語っているのかを研究する本文批評や聖書学においては、リベラルな神学に引けを取らない学的な実績を積み重ねてきた。

そうした時代背景のもと日本は1959年、プロテスタント宣教100年を迎えた。いのちのことば社の創立から9年後のことである。このとき福音的な教団・教派の指導者らは「聖書信仰」を軸に協力し、「日本宣教百周年記念聖書信仰運動」を展開した。福音派の著名な牧師オズワルド・スミス、旧約学者エドワード・ヤング、新約学者ロジャー・ニコルらが来日し、各地の大会で講演した。いのちのことば社からは、オズワルド・スミスの『聖霊の満たし』など多くの著書が出版され、またエドワード・ヤングによる神学書や聖書注解も刊行されている。
この運動は日本宣教百周年の記念行事にとどまらず有志の運動体として組織化され、翌60年に「日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)」が設立される。改革派・長老系、バプテスト、アライアンス、ホーリネス系など、幅広い背景を持つ教会指導者らが「聖書信仰運動」に糾合することとなった。
そうした経緯を背景に、原典に忠実な口語体の聖書を刊行する必要があるとの希求が高まり、61年に新改訳聖書刊行会(翻訳団体)が発足。翌年から、日本人の手によりヘブル語・ギリシア語原典からの翻訳作業が開始され、65年に新約ができた。70年に旧新約が完成し、日本聖書刊行会(頒布団体)から『聖書 新改訳』として刊行された。いのちのことば社は出版・頒布の面でその一翼を担ったが、そのことは以後の出版に大きな実を結ぶこととなった。新改訳の翻訳を基として日本の福音的な聖書学者・神学者による書き下ろしの『新聖書注解』シリーズを刊行したのをはじめ、新改訳の成果を反映させて聖書を学び福音を伝えるための多様な出版物が生み出されていった。
この聖書信仰は、限定された狭い特定の立場に閉じられているのではない。神のことばの豊かさに開かれている。神のことば=聖書が何を教え、その福音がどのようなものであるかについて多くの探究がなされてきた。いのちのことば社の出版活動は、その結実を反映するものといえる。この70年間で世に送り出してきた出版物の分野、立場、視点、アプローチは、実に多様である。しかし、著者がいわゆる「聖書信仰」の立場とは異なる場合においても軸足は聖書信仰に置き、「聖書は誤りなき神のことばである」という信仰基準に基づき、包括的な福音理解によって教会とキリスト者、また世に対して有益な使信を問う姿勢を堅持してきた。

「日本宣教百周年記念聖書信仰運動」が採択した大会宣言には、この運動が単に聖書論の分野での啓発や宣証にとどまらず、時代と社会に対して聖書の規範に基づく発信をする預言的な問題意識を持っていたことがうかがえる(以下宣言文)。
【大会宣言】
聖書、即ち万物の創造者であり、又人類歴史の支配者である神の誤りなき御言葉によって、我らは茲(ここ)に日本の国に於ける福音宣教百年に当って、次の宣言をなし、来るべき宣教第二世紀の為に立てる、我らキリスト者の証しのことばとする。
一、我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦(また)国民生活的にも、一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する。
二、我らは聖書によって、国家と教会が、共に神の主権の下に立つ、二種の相異なる正当な秩序であることを認め、政教分離の原則に基づき、信教自由の基本的人権を保護する現行憲法を、その点に関して聖書的と認めて支持する。
三、我らは我が国に於いて、右の政教分離の原則が無視され、信仰の自由が甚だしく圧迫された過去にかんがみ、今後国家行事の中に、宗教的要素の混入することのないように監視し、かかる過誤の排除に積極的に努力する。殊に伊勢神宮は宗教であるが故に皇室との密接なる関係、或いは国民の精神的中心、或いは祖先崇拝の美風、等の如何なる理由又は名目によっても、国家の特別厚遇を受くべきでなく、又かかるものとして国民一般に強制されてはならないことを、重要なる点として強調する。
以上の三点を貫いて、国家と教会との正しいあり方のために、我らは一つの聖書信仰によって、協力して信仰のよき戦いを戦うことを誓う。(宣言文は以上)
聖書信仰運動の、信仰と国家・社会に対するこうした理解を起点とし、JPCやさらに福音的な教団教派を糾合する形で68年に創立した日本福音同盟(JEA)では、靖国問題、大嘗祭問題、改憲問題など政治・社会に関わる事案についても「聖書信仰」に立ち、福音の宣証に欠かせない重要課題と捉えてきた。
いのちのことば社の出版物は今日も、聖書の学びや霊的な養いに資するものから広く社会の諸問題までカバーしているが、それはまさに「聖書信仰」に根差しているがゆえであるということができよう。
※次回の「70周年特集」は8月16日号に掲載します。