3月14日号紙面:講演Ⅳ「ラディカル・リベラリズム神学」原田氏(下)聖書への信頼という変わらない確信を 第23回断食祈祷聖会2021(最終回)
講演Ⅳ「ラディカル・リベラリズム神学」原田氏(下)聖書への信頼という変わらない確信を 第23回断食祈祷聖会2021(最終回)
「断食祈祷聖会2021」(同実行委員会主催)が1月11、12日に開催。今年はコロナ禍のためオンラインで開かれ、「開拓伝道」、「児童虐待と家庭形成」、「海外宣教」、「ラディカル・リベラリズム」の四つの講演が行われた。2日目の講演Ⅳでは、原田彰久氏(日基教団・東京聖書学校吉川教会副牧師)が「ラディカル・リベラリズム神学」をテーマに講演。今回はその続き。【中田 朗】
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原田氏は「ラディカル・リベラリズム神学」に教会はどう向き合えばよいのかについて、①教会の旗色をはっきりさせる、②「文献学」を学ぶ意義と課題を理解する、③聖書を教会で共に読み成長する、の三つのポイントで話した(①については前回詳述)。②については、聖書もまた古代の文献であり、『信仰がある、ないに関わりなく、(文献学は)聖書を研究する土台』である、その意味で文献学すべてを拒否する必要はない、と語った。その上で、「伝道牧会の現場で思うところ」を話した。
「一般の出版社から出ているある聖書の解説本の帯に、『聖書は絶対的なものではない。信仰者においては狂信からの解放を。無信仰者にとっては懐疑からの脱却を目指す福音の新しい読み方』と書いてあった。これはとても刺激的な内容だ」
特に帯の文言からa.信仰者においては狂信からの解放を、b.無信仰者にとっては懐疑からの脱却を、に注目。
a.についてはこう語る。「聖書を『神の言』と信じることは『狂信』であると言われている。しかし、そうだろうか。聖書には『人の言』と『神の言』の両面がある。聖書は『人の言にして神の言』と言われ、これを表したのが『言語十全霊感』であり、聖書信仰という福音派の立場だ。聖書信仰とは、聖書を拝むこと(聖書崇拝)ではない。『人の言にして神の言である』聖書を大切にするということだ」
b.についてはこう語る。「ここに言われている『懐疑』とは、例えばイエス・キリストの復活のこと。しかし、学問的研究だけで文字通りの復活は語れない。『復活とは弟子たちの心の中で起こった出来事』のように、内面化し矮小化するほかはない。そうすれば、信仰がなくても納得できる。聖書を学問的、つまり人間の経験の範囲内で読むなら、そう語らざるを得ない。皆さんも初めから信じていたわけではない。自分も奇跡など信じられなかったことを思い起こしてほしい。『そうですね。奇跡なんて信じられませんよね。私もそうでした』と共感しながら聖書の福音を伝える知恵が必要ではないだろうか。そこで『聖霊は御言葉(聖書)と共に働く』という宗教改革者の知恵が大切だ。『奇跡が信じられない』という『懐疑からの脱却』は、聖霊が聖書を通して成し遂げる。教会とそこに集う私たちは、祈りつつ、そのお手伝いをするのだ」
③の「聖書を教会で共に読み、成長する」では、「私たちは信仰を『個人』の問題として考えがちだが、聖書が指し示す信仰は明らかに『教会共同体』を前提にしている」と指摘。「『教会とは『あなたはメシア』と告白する者の群れであるということだ。ローマ10章9節の『公に言い表し』(新共同約)、『告白し』(新改訳2017)と訳される意味は『一つの言葉を語る』『同じ信仰に立つ』ということ。一方、私たちは礼拝で主の祈りを捧げ、信仰を言い表し、祈りの最後に『アーメン』(そのとおり)と言う。それは『あなたがたが信じているイエス・キリストと、私が信じているイエス・キリストは同じだ』ということ。こうして私たちは、聖書と歴史に学ぶ教会理解が大切であることを覚えたい」
最後に原田氏は、「日本基督教団の伝道者として福音派を外から見て、デボーションの充実、神との個人的な関係を大切している点が素晴らしい」と言う。
一方、課題も指摘した。「第一に、どうすれば教会が大きくなるか、という教会成長のハウ・ツーを考えることに熱心だが、教会とは何かということはあまり考えられていないのではないか。第二に、教会のカルト化が問題になっているが、牧師伝道者に従うことが神に従うことと置き換えられていないか。教会が主イエスの身体であり、牧師伝道者を含め、すべてのクリスチャンはその枝である、という聖書の基本的な教会理解の回復が大切なのではないか」
「私たちは湖上の弟子たちのように様々な逆風にさらされているが、このような私たちのところに主イエスが来てくださる。そこでは伝道のために『聖書への信頼という変わらない確信』、『福音のためには問題を明らかにし、積極的に変える勇気』を持ちたい」と結んだ。