私の3.11~10年目の証し 第三部 いわきでの一週間②

写真=平キリスト福音教会で。2011年3月11日

私の3・11」第三部は、私と当時出会った人たちの体験を中心に、10年を振り返る。【高橋良知】

▶2011年3月11日
午後2時分の本震の後も、余震のたびに立ち止まって様子をうかがった。ようやくいわき駅に戻ったのは3時すぎだっただろうか。人々が立ち往生していた。電車もバスも不通。まだ被害の全貌もわからず、しばらくすれば交通機関も動き出すだろうと思っていた。駅前では時々訪れる余震に人々は動揺し、「運転再開の見通しは立ちません」のアナウンスが繰り返し響いていた。

当時使っていたガラケー(携帯電話)で、mixi(ミクシー)などのSNSやブログ、メーリングリストなどを見回して、身近な人たちの状況をうかがった。いわきはほぼ初めて来た町だ。海のイメージがあり、津波が心配だった。やがて「終日運転見合わせ」のアナウンスが聞こえた。
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グローバル・ミッション・チャペル(=GMC、平キリスト福音教会)では、昼過ぎに牧師会が終わり、それぞれ帰路についていた。教会員の小野泉さんは同じ頃教会で用事をすませ、車で出てすぐ近くのコンビニ横の信号待ちで地震に遭った。「ガラーときて、これは大変だと思い、わきの駐車場に車を止めて下りた。ちょうど横断歩道を歩いていた下校中の小学生たち4、5人を集めて、地面に座らせた。すごい揺れだったので、子どもたちは『道路が壊れている!』などといろいろ叫んで怖がっていた。道路は波打ち、タイルもバンバン跳ね上がって壊れていた。揺れが収まってから、子どもたちを見送った。自宅に行くと妻は無事でした」。ラジオは「津波が来ます。津波が来ます」と繰り返していた。しばらくして自宅の水道が止まった。
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当時GMCの一角を住居にして暮らしていた伝道師の阿部俊弥さんは、牧師会の後に、教会の何人かの人と片づけをしていた。「地震が起こると、揺れがますます大きくなってどうも止まらない。妻や娘も部屋から出てきて、リビングのテーブルの下にもぐり大声で叫んで祈った。当時、乳飲料の委託配送をしていたが、沿岸部の顧客の安否が心配で、彼らのためにも祈りました」
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いわき市の乳飲料販売会社で役員をしていた五十嵐義隆さんは、浪江町への配送から戻り、しばらくして地震に遭った。「事務所のものが倒れたり、コンピューターが机から落ちたりしたが、幸い仕事に支障を来す被害や倒壊はなく、冷蔵庫の在庫もほぼすべて守られた」(「リバイバル・ジャパン」2011年5月11日号)。もともと災害救援の経験もあり、社員たちを社屋から出させ、「冷静に」と落ち着かせて、揺れが止まるまで待った。借家の自宅は、壁のひびなどはあったが、「所有物は守られた」と話す。
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その日、いわき駅前でデリバリ・チャーチという路傍伝道の働きを予定していた山本昇平さんは、出かける直前に自宅のアパートで地震に見舞われた。「『静まれ』など、めちゃめちゃ祈った」と話す。「駅には人がたくさんいて、ただごとではないと感じだった。伝道しようという雰囲気ではありませんでした」
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交通は遮断され、慣れない町で私は立ち往生していた。一時間ほどして、山本さんと連絡が取れ、「何とか教会にでも避難させてもらえないか」と願い、合流した。教会に向かう道すがら、波打った道路の上で車はガタガタ揺れた。電柱や街灯などは折れ曲がり、古い家屋は瓦がなだれ落ちて倒壊していた。そのような景色を見るたびに、「うわぁ」と声にならない声を上げたり、「ガス管が壊れて火事になったらやばい」と心配したりした。

GMCの教会堂はもともとパチンコ店。建物は頑丈で、電気や水道も出ていた。ただ食器類は割れて散乱し、備品もあちこちで倒れていた。食料品やクリスマス用に献品されたロウソクなどの備蓄もあった。日が暮れるまで片づけを手伝った。

近隣の教会員や、青年ミニストリー「ラブ・レボリューション」関係で教会に住み込みで奉仕していた同世代の青年たちが何人かいた。ある青年は飲食店でアルバイトをしていたが、冷蔵庫が使えなくなったので、食料品の一部を譲り受けて、教会に持ち帰った。電気は時々止まったのでロウソクの灯(あ)かりの中で、食卓を囲んだ。「明日から大変になるな」と思い多めに食べた。

いつ頃か、「仙台市沿岸で遺体が数百体打ち上げられた」「千葉沿岸で火事」「気仙沼で火事」といった報道が伝わった。
自宅で過ごすことに不安がある人や外国人など、何人かは数日会堂で過ごした。(つづく)