ペンテコステメッセージ 使徒2章1~21節から 神のこころを自分のこころとして 関西聖書学院学院長 髙橋めぐみ

私たちが聖書を読む時に大切なのは何でしょうか? それは「神のこころ」です。聖書全体を貫いている神様のこころを読み取り、応答していくことです。私たちはこのペンテコステの出来事を「私の霊的成長」や「私の教会の成長」という視点で読むのでなく、背後にある神の大きな計画を読み取り、主の熱いこころを知っていきましょう。

⑴終わりの日(the Last Days、17節)

ペンテコステの出来事は、終わりの時代の始まりでした。壮大な神の国の計画、─創造から始まり、旧約の時代を経て、イエス・キリストの到来、十字架と復活を経て─の終わりの時代です。一人の人アダムによって罪の呪いが広がりました。しかしアブラハムへ約束(創世記12・3)が与えられ、一人の人イエス・キリストによって救いがすべての人へと広がっているのです。その終わりの時代に、私たちは今生きています。
イエス様は復活後、弟子たちに現れ、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目によみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」(ルカ24・46~48)。イエス様が一言でまとめて弟子たちに悟らせた聖書全体です。その中の“宣べ伝えられる”終わりの時代に、私たち(教会)は、証人として召されているのです。

髙橋めぐみ氏

⑵すべての人に(17節)

ヨエルによって語られた神の言葉は「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」(17節)というものでした。しもべ、はしため、青年、老人、息子、娘。年齢、立場関係なくすべての人に、です。私たちは、ともすればこの「すべての人に神の霊が注がれる」恵みを見過ごしがちではないでしょうか。
“すべての人に”神の霊が注がれるまでのプロセスに、どれほどの神様の忍耐と熱心があったでしょうか。始まりは、土の器に神の息が吹きかけられ、神のみこころと一つとなるよう造られたアダムです。しかし、堕落と霊的死。そしてそこから長いプロセスを経て、イエス・キリストの十字架の贖いと復活。それゆえの聖霊降臨。史上最大の犠牲が払われ、神との関係が回復されました。まさに「万軍の主の熱心」がこれを成し遂げたのです。
「取るに足りない私」が救われたことを信じ、涙を流して感謝するけれど、その小さな私にも聖霊が注がれ、神様を証ししていく重要な使命があることを、感動をもって受け取っているでしょうか。このために自分が組み合わされたキリストの体の一部分であることを受け取っているでしょうか。私たちは神のこころを半分だけ知っている者であってはならないのです。

⑶太陽は闇に、月は血に(20節)

日本は神に対する大変な罪を犯しています。それは進化論です。神様が造られた大自然の中で生かされているのに、「偶然にできた。そして偶然にすべてがうまく回っている」と言っているのです。神様に見放されて当然なのですが、神様は「怒るのに遅く、恵み豊か」(ヨエル2・13)で、今日も分け隔てなく太陽の光を与え、守ってくださっています。私たちは、意識も感謝もせずにおいしい空気を吸って生きています。そして、何か災いが身に降りかかった時には、多くの恵みを棚に上げて、「もし神がいるなら、なぜこのようなことが起こるのか」と急に神を引き合いに出してきて神を呪うのです。
「太陽は暗くなり、月は血に染まる」のは、必ずしも将来のことではありません。今すでに起こり始めていることでもあります。太陽と月は恒久的なものですが、当然、と思い上がっている私たちに、神様はご自身の保持の手を少し緩めて異変を許されるのです(ヨブ1・12参考)。それは私たちが神様に立ち返るため、神様に気付き、悔い改めるためなのです。この終わりの時代、最後のさばきが来る前は、災いさえも、心を痛めながら待っておられる父の愛なのです。

⑷わかる言葉で

弟子たちは聖霊に満たされて他国のいろいろなことばで話し始めました(4節)。それを聞いた人たちは「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」と驚きました(11節)。もちろんこれは、地の果てまで言語を超えて福音が伝えられていくスタートの出来事でした。しかしそれだけでなく、証しの言葉が、聞く人にとって自分に語られている言葉として受け取れたということでもあります。単に言語の種類のことだけでないのです。例えば、今の時代オンラインでのコミュニケーションが盛んになっていますが、聞き手に“自分に語られている”と受け取れることば、伝わることばとは一体どのようなものか考えさせられます。
そして、私たちは「しなければならない」と義務で証しするのではありません。「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに」(4節)と書かれているように、御霊なる神様が語らせてくださるのです。まず祈りがあり、聖霊に満たされ、内におられる神様と心一つにされるのです。その時に枠を越えていく何かが生まれます。まさに、これこそ土の器にいのちの息を吹き込まれた本当の人間の姿ではないでしょうか。神様のこころを自分のこころとして、人々が真の神様に帰るようにこころから願って、証ししていきましょう。