写真=陸前高田キリスト教会に続く道。会堂近くまで津波のがれきがせまっていた。
写真提供=門谷信愛希

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
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前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

③忍耐の一週間と支援の開始

④仙台から陸前高田へ

2011年3月22日

陸前高田市に向かう中でのことを、門谷信愛希さん(仙台福音自由教会副牧師当時、現古川福音自由教会牧師)はこう書き記した。「最も胸が詰まったのは、家族のアルバムを発見した時です。泥にまみれたそれは、つい10日ほど前まで、そこで何気ない平和な日常があったことを思わせました」(石巻福音自由教会ブログ内「支援活動ブログ」)

写真=市街中心部も壊滅状態

「道端の子どもに道を聞くと、気丈な様子で答えてくれた。生まれ育った場所がこのような状況になり、彼らはこれからどう生きていくのか。胸が締め付けられた」とも話す。

目的地の高齢者施設は高台にあり、建物は無事だった。200人の入居者に加え、300人の避難者がおり、ホールは雑魚寝状態だった。電気は通っており、床暖房が使えた。「オムツ・タオル・食料全般が圧倒的に不足しているということでした。私たちが携えていったものもまさにズバリでした。また30名の小学生の避難者もいたため、救援物資の中のお菓子は本当に喜ばれました」(同ブログ)。

もう一つ気になった場所があった。同市内唯一の教会、ベテル・ミッション陸前高田キリスト教会(森田為吉牧師)だ。当時のクリスチャン新聞の報道では3月15日までに、岩手県花巻市の熊谷英三郎牧師(単立・花巻キリスト伝道所当時)が森田牧師夫妻の安否を確認したという。「陸前高田キリスト教会は海岸から約2キロだが、高台に位置する。会堂から10メートル手前で水が止まったため難を逃れた」(3月27日号)とあった。

教会は高齢者施設から数百メートルの距離にあった。だが道はがれきの山でふさがれていた。まず救援チームから一人青年が教会の様子を見に行った。

1965年7月

森田牧師が陸前高田市に来たのは1965年7月。東京・西多摩郡瑞穂町のベテル・ミッション瑞穂キリスト教会で救われ、同教会で訓練を受ける中で、東北開拓への明確なビジョンを抱いた。5年前にチリ大津波が東北地方を襲い、救援活動をしたこともある。特に岩手県に心が止まり、教会がない陸前高田市での宣教を志した。「宣教師からは伊豆大島への開拓とサポートの勧めがあったが、東北の召しを確信していた。そのためサポートなく裸一貫で東北にいくことになりました」。エミ子夫人と結婚したばかりだった。

町の電信柱などには、チリ大津波の到達点の印があった。「この町に来たら、必ず津波に遭遇すると覚悟した。しかし今回(2011年)の津波は想像以上のもので驚いた」と振り返る。

開拓は東京から応援を受けて、同市と大船渡市で天幕伝道を開始した。空き地にテントをはり、アコーディオンや太鼓を鳴らし、スピーカーで呼びかけた。人形劇や紙芝居をして、子どもが百人以上集まった。「そのころの子どもたちは、今なお教会の中心になっており、各地に移住した人も信仰を持ち、かかわりがあるのが感謝です」

地元の建設会社で働きながら自活伝道をした。「社長がいい人で、社員にしてくれ、教会活動で1,2週間休むことも許された。そのおかげでアメリカやイスラエルにいくこともできた。会堂を建てる時は建設をお願いし、社員割引にしてもらいました」

教会で救われる人が起きても仕事や結婚で盛岡市や他県に移住するということは多かった。そのような中でも信徒の中から献身し、牧師となった人もいる。開拓数年後には、教会堂建設に取り組んだ。盛岡に移住した人たちなども献金し、会堂をたてることができた。

「生きている間に日本のリバイバルを見たい」。宣教46年目を迎えようとする中、東日本大震災が起きた。(つづく)

クリスチャン新聞web版掲載記事)

連載各部のリンク

第一部 3組4人にインタビュー(全8回   1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った  (全4回   3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間   (全16回 4月25日号から8月22日号)