第22回日本ウェスレー・メソジスト学会研究発表① 河野氏「排除も包摂も同じ熱意だったパウロ」 異邦人の聖性回復求めた

写真=河野氏

日本ウェスレー・メソジスト学会(田添禧雄会長)の第22回総会・研究会が9月13日、オンラインで開催(9月26日号で一部既報)。当日は河野克也(ホーリネス・中山教会牧師)、原田彰久(東京聖書学校舎監)、坂本誠(ナザレン・下北沢教会牧師)の各氏による研究発表が行われた。今回は河野氏の研究発表「排除から包摂へ:パウロにおける聖化の黙示的ビジョン」。
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以下は研究発表の要約。
─パウロは割礼を受けようとしていたガラテヤの信徒たちに対し、かつての自分は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとし、同世代の多くの同胞よりもユダヤ教に精通し先祖の伝承に対しては極めて熱心だった(ガラテヤ1・13、14参照)と述べる。教会の迫害者としての自らの過去をさえ、誇りをもって回想しているかのようだが、タルソのサウロは恐らく自らの教会迫害、破壊を神の召命によると考え、熱心に行っていたのである。

一方、パウロはローマ書で、今度は異邦人宣教の使命を「誇り」として語る。15章16節では「祭司の役を務め」と表現し、その目的を「異邦人が…聖なるものとされ…ささげ物となるため…」と説明する。神殿祭儀のイメージで異邦人の聖化を捉えていたことは、信仰者の聖性を重要視するウェスレーの伝統に連なる私たちには、極めて示唆的であろう。

パウロは異邦人教会の信徒を神の民イスラエルと見なし、「イスラエル」をアブラハムの子孫による血族/民族的共同体から神の約束による共同体、約束の御子イエスの「信実」を通してその約束に参与する者たちによる共同体へと定義変更をしている。パウロは自らの「異邦人への使徒」(ローマ11・13)としての召命を「イエス・キリストの召命を通して」受けたと述べ、神が「御子を私に示し」たと言葉を重ねる(ガラテヤ1・12、16)。「啓示」「示した」は「黙示」とも訳される言葉であり、この黙示的啓示がパウロの転換点となった。

さて、パウロがこの黙示的啓示以前から、終末的な聖性の回復を自らのユダヤ教徒としての使命(召命)としていた可能性は、彼の教会迫害の動機を探る中で浮かび上がる。律法に対する「熱意」のゆえに教会を迫害した時期、彼は恐らくピネハスの「熱意」(民数記25・6)をモデルとしていた。この「熱意」はピネハスが性行為中のイスラエルの男とミデアン人の女を槍で刺し殺した出来事を指すが、神は彼が「その熱意をもって、彼らから私の憤りを取り去った」(25・11)と述べ、ピネハスとその子孫に対し「平和の契約」「永遠の祭司職の契約」を約束する。このピネハスの戦闘的熱意は、後の時代に一つの理想形として繰り返し提示された。パウロが「先祖の伝承に対して極めて熱心」だったと述べるのも、この背景から理解できる。

また、エゼキエル書の黙示的・終末論的な神殿ビジョンも、背景として挙げられる。44章では「心にも肉にも割礼を受けていない外国人…は誰一人として、私の聖所に入ってはならない」(9節)とあり、異邦人の排除が命じられている。これは、パウロが教会迫害時代に実践していたピネハス型の戦闘的行為がエゼキエル書に描かれている神の聖性回復のための異邦人排除として展開されていたことを示唆する。

他方、イザヤ書56章では、「異国の子ら」が終末における救いの完成の日にはヤハウェの神殿において祭儀に参加する喜びにあずかると共に、彼らの「焼き尽くすいけにえ」「会食のいけにえ」がヤハウェに受け入れられると告げる(7節)。ここに描かれている異邦人包摂は、ユダヤ教への改宗(つまり割礼)が想定されていると読めなくもないが、改宗抜きで神の民に包摂されることを描いていると考えるほうが自然であろう。

では、自身の聖性回復を、かつてのピネハスの戦闘的熱意/エゼキエルの異邦人排除型からイザヤの「異邦人の巡礼」モデルに変更したのだろうか。事はそう単純ではない。イザヤ的「異邦人の巡礼」モデルでは、聖性回復はあくまでエルサレム神殿が中心となるが、パウロは異邦人キリスト者および異邦人教会を聖霊の宿る神の神殿(Ⅰコリント3・16~17、6・19)と見なし、聖性がエルサレムの外へと拡散すると理解した。彼は神によって御子を啓示され、この拡散する聖性回復の実現を自らの使命として受け取ったのである。

パウロは、自らの異邦人宣教を「異邦人の聖化」として描くが、それは法廷的義の宣告としての義認に後続する「聖化」のことではない。パウロが異邦人キリスト者の倫理的成長に多大な関心を寄せていたことは言うまでもないが、彼の異邦人の聖化の取り組みは、初期ユダヤ教における終末論的聖性回復のコンテクストによって理解されるべきであり、後代の教会が教理的に整備した「聖化」の概念によって解釈することには、最大限の注意を払うべきであろう。─