この2年間、教会はコロナ禍で最大の危機の中を通っています。そして今も先が見えない状況です。多くの人が、危機に対する備えをしなさいと言います。もちろん私たちの側での備えは大切なことです。しかし、私たちの予想をはるかに超える急速な変化や、災害も想定を超えることがしばしばです。私たちは、信仰生活を送る中でも時に試練の中を通らされることがあるのです。
そんな中、冒頭の聖書の個所は、私たちが備える以前に、主が備えていてくださると記されています。ここで確認できることは、主は生きておられ、このお方が将来をしっかり握っておられ、私たちの一歩一歩を導いてくださる、ということです。
創世記22章は、アブラハムに対する神による信仰訓練のクライマックスです。アブラハム対する試練は「信仰のテスト」と言う要素が強い事柄でした。

神を愛するかとの問いかけ

神は、アブラハムに対して「あなたの愛している。ひとり子イサクを全焼のささげ物として献げなさい」と命じられました。全焼のささげ物とは動物を殺し、すべてを焼き尽くすささげ物です。アブラハムにとっては信じられない命令でした。神はアブラハムに対して、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」(へブル11・18)と約束してくださいました。ですからイサクを全焼のささげ物として献げることは、その約束の実現を自ら断つ事になります。

石田敏則氏

神はアブラハムに、「あなたは自分の子どもイサクを偶像としてはいないか。イサクと私とを天秤(てんびん)に掛けたらどちらを取るのか」と問われたのです。私たちの信仰生活でも、いつの間にか、神様以上に大切なものができてしまう危険性があります。初めは、主のためにとの動機で始まったものが、いつの間にか自分の欲求を満たすものへと変わってしまうことがあるのです。神よりも大きな愛を注ぐ対象、それは偶像なのです。警戒させられる事柄です。
アブラハムは翌朝早く、息子イサクと共に神が告げられた場所へ出かけて行きます。アブラハムには何の葛藤も無かったのでしょうか、彼はその晩眠れない夜を過ごしたでしょう。映画の天地創造では岩を打ちながら、叫ぶ父の姿が描かれています。そこには大きな苦悩と葛藤があったでしょう。それでも、彼は、神に従うことを行動で示したのです。

信仰についての問いかけ

「アブラハムよ、それでもあなたは神の真実さ、神の約束の確かさを信じられるか」との問いかけです。アブラハムは神に従い、神を愛することを選びました。常識的に考えれば到底従えません。
しかしアブラハムは神を信じ、この試験にも合格したのです。ヘブル人への手紙11章では「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです」(17節)と記されています。アブラハムはイサクを献げる前に、たとえイサクを全焼のささげ物として殺したとしても、神はこれを復活させなさる、という信仰を持って行動に移したのです。

神の備え

アブラハムへの最終試験は、モリヤの山でイサクを献げる行為でした。アブラハムが本気で刀を振り上げた、その瞬間に主が彼の心を受け入れ、全焼のささげ物の代わりの羊を備えられた、と言うことです。この経験を通してアブラハムは「主が備えてくださる」ことを知ったのです。
それはまさに、神のタイミングに従って与えられたものでした。
アドナイとは「神」であり、イルエは「見る」という意味です。「神は見ておられる」のです。もっと言えば「予め見ておられる」ということです。神は、私たちが本気で従おうとしているのか、献げようとしているのか、それとも単なるパフォーマンスなのかを見ておられるのです。また、主は、私たちの必要を見ておられるのです。その時その時の必要に備えてくださるお方なのです。
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今後、私たちには今までとは異なる教会運営が求められるでしょう。コロナ禍で教会の抱える様々な問題や課題が顕著なものとなりました。そして、その本質が問われていると思います。しかし、たとえ先が見えなくても、見ておられ、知っておられる神が私たちの主であることを確認させていただきましょう。それは私たちに大きな平安と希望を与えてくださるものです。神の備えは、人間の考えや思いを超えています。神の救いは、キリストの十字架のあがないを信じる信仰によって全世界の人々に及びました。
今年も、私たちには何が待ち受けているのかわかりません。しかし、主が備えてくださるものはすべて私たちの思いを超えた素晴らしい事です。備えて下さる神を信じ、期待をもって、新しい年を始めようではありませんか。
神の備えが与えられるためには、神を愛することが条件です。
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです」(Ⅰヨハネ5・3)
アブラハムのように具体的な行動になって現れるものをさします。主を愛することを最優先させてください。しかし、神への愛は、その祝福を求める手段ではありません。神への愛を交換条件のように考えてはいけません。祝福があろうと無かろうと、神が神である故にこのお方を礼拝し、従い、愛するのです。神は私たちに祝福を注ごうと待っておられるのです。