聖霊のうめくような執り成しによって

私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め
私の望みは神から来るからだ
<詩篇62篇5節>

コロナ禍のなかで、不自由を強いられる一方で、これまでになく、霊的生活のなかで思いがけない恵みをたくさんいただいたことも事実です。
その中でも、うれしかったのは、昨年の4月以来、教会で開かれている早天祈祷会にほぼ毎朝、参加できたことです。元々、夜型人間の筆者にとって、朝6時から始まる教会の集会に参加することなど考えられもしませんでした。それに、東京の新宿にある母教会から埼玉県の自宅までは電車に乗って一時間以上はかかるのです。それが、出席しない正統(?)な理由になっていたのですが、コロナ禍は、ラインでどんな遠くに住んでいても、この早天祈祷会に参加できるチャンスをもたらしたのです。

正直、朝、この祈祷会に参加するため5時半には起きていなければならないのは辛かった。だが、毎朝、十名近くの教会員がこの早天にラインで参加していることを思うと、休んでもいられません。そして、参加してみると、これまでの信仰生活では味わうことができなかったような魂の満たしを体験できたのです。

早天祈祷会のプログラムは、その日の聖書日課に従い、与えられたみ言葉を全員で輪読します。聖書日課にある証を読んだ後、10分間、み言葉に聴く時を持ちます。この時が、黙って、神を待ち望む時となります。
その後、一斉に、み言葉への応答の祈りと、家族や友人のための執り成しの祈りが捧げられます。そして、参加者一人一人が祈り、最後に、主の祈りで集会を閉じます。集会の主要時間は一時間ですが、執り成しの祈りが長くなり、それを超えることもしばしばです。


早天祈祷会に参加するようになって、気づかされたことがあります。その一つが、自分の信仰生活は、教会という霊的共同体の中で互いの執り成しの祈りによって支えられているという事です。“私は祈られている”という気づきは、どれほど大きな励ましであったことか。そして、それ以上に、弱い私の信仰生活は、御聖霊のうめくような執り成しによって支えられているという現実です。
(ローマ・8章26節)


かつて、主イエスは、信仰がなくならないようにとペテロのために祈られた。同じように、私たちとの交わりを願われる主は、今も、どう祈っていいのか分からず苦しんでいる弱い私たちのために執り成して下さっておられるのです。
(記・守部喜雅)

クリスチャン新聞web版掲載)