オンライン活動の急拡大が私たちの日常にもたらした変化は多大で、社会・経済活動のあらゆる面に及んでいます。首都圏では、通勤時間帯の駅の風景や、食品や不動産の売れ筋まで変化しているといいます。

教会も、それぞれ多様であるにしても、急激な変化に直面しているでしょう。

主日の礼拝の風景が変わり、祈祷会の「集まり」方や顔ぶれが変わり、諸活動にも変化があるかも知れません。

積極面も、限界と危険性もわきまえながらの調整が続いてるものと思います。変化を評価することにおいても、対応の検討においても、その基準と原理を聖書に聴き抜くことを大切にしたいものです。

神学教育も「真空状態」でなされるはずはなく、環境や時代精神の変化と呼応する面があります。
聖書神学舎は、全人格的教育を大切にして、全寮制を採用し、研修生活を通じての人格の陶冶を願って来ました。

教室での授業に加えて教会奉仕における訓練を大切にしているのも同じ目的のためです。

コロナ禍にあって、ある時期には寮を個室化し、研修生活の交わりの時間や方法を制限しました。黙食を続けています。

奉仕教会の判断でオンラインの教会奉仕を経験した研修生も少なくありません。それでも、全人格教育を大切に考えて、制約を設けつつも全寮制を維持できたことは幸いでした。それが可能な環境や条件が備えられていたことを感謝しています。

一方で、オンラインの活動も積極的に採用してきました。拡大教育や継続教育が拡充され、諸教会とのコミュニケーションが増えています。

国内外各地の同窓諸師にチャペルで奉仕していただけるのも、オンラインならでは。学舎の教室を越えた、国内外の学びにあずかることもできます。宣教大会などに参加する機会も広がっています。

こうしたことを感謝しつつ、同時にオンラインの限界を、的確に謙虚にわきまえることも重要です。

現状では、オンラインは全人格的なコミュニケーションには全く及びません。

従って、全寮制の教育に代わるものにはなりません。危険もあります。特に、全人的な参与を軽視する傾向は要注意です。

人と人との交わりが、部分と部分との交流でしかあり得ないという思想が社会にまん延すると、「交わり」は希薄なものとなり、人の社会性が蝕(むしば)まれ、結婚や家庭に傷が広がるでしょう。

礼拝が変容し、主にある交わりが変質し、人を知ることも、ひいては神を知り、神との交わりに生きることも、到達不可能な理想に過ぎないと言い放つようになりはしないでしょうか。

また、フィルターバブルやエコーチェンバー現象の加速といわれる諸問題も、、、、

(その様な中で求められる神学教育について赤坂氏は語ります。2022年1月2・9日号掲載記事)