日本福音主義神学会は11月に開催した第16回全国研究会議のテーマを「キリスト者の成熟」とし、教会・社会・文化からの研究発表を基に議論を交わした。その中から「教会人としてのキリスト者の成熟」について新約聖書、特にパウロ書簡から論じた岩上敬人氏(日本福音同盟総主事)の発表の概要を紹介する。岩上氏はパウロ書簡における「成熟」に関わる語の用法を概観し、ピリピ3・12〜15、ローマ12・1〜2、エペソ4・11〜13を取り上げて釈義・解釈した。

岩上 敬人(いわがみ たかひと) 日本福音同盟 (JEA)総主事。 米国・アズベリー神学大学院卒業M.Div. 英国・マンチェスター大学大学院卒業Ph.D. 東京基督教大学非常勤講師(新約学)。著書『パウロギリシア・ローマ世界に生きた使徒』、訳書N.T.ライト『使徒パウロは何を語ったのか』(いのちのことば社)他。

 

共同体において愛が働き、キリストの世界大のひとつのからだが建設される

 

キリスト者の成熟と教会は切っても切れない関係がある。しかし人間個人の救済論を基軸にした神学的アプローチでは、キリスト者の成熟の課題が神の前におけるキリスト者個人の成長の問題として限定的に捉えられる傾向にあった。パウロ書簡をはじめ新約聖書全体を俯瞰(ふかん)すると、「キリスト者の成熟」の主題は、キリスト者個人というよりも、教会共同体の文脈で頻繁に扱われており、神の前におけるキリスト者、個人としての成熟は中心的関心になっているとは言えない。教会人としてのキリスト者の成熟は、新約聖書的な主題であると言えるだろう。

パウロ神学における成熟・完全

ピリピ人への手紙で成熟・完全の概念は、終末的完成、すなわち死者の中からの復活を最終目標として、パウロとピリピ教会のキリスト者が現在のキリストの十字架の交わりの中を、一致を保ちながら生きることである。ローマ人への手紙では、新しいキリストの時代における礼拝において、異邦人とユダヤ人、全世界の民がともに礼拝をささげるという、礼拝の完成に向かってローマ教会のキリスト者が愛を中心とした教会生活、社会生活を送ることであった。エペソ人への手紙では、キリストがすべてのものを満たす完成に向かって天に昇り、聖霊の賜物を教会に与えられたこと、教会は、キリストの満ち満ちた身丈に至る完成を目指して、さまざまな聖霊による役職や道徳的資質においてキリストの姿に成長していくことが語られている。

終末論からの位置づけ

パウロの完全・成長の概念は、終末論と深く関わっている。特にパウロが示す、現在の完全・成熟と最後の完成の連続性は、特筆すべき点である。パウロの神学において、古いアダムの時代、罪と死の支配の時代、肉の時代と、新しいキリストの時代、神と義の支配の時代、御霊の緊張関係の中で完全・成熟を位置づけることができる。これはパウロ神学における「終末的緊張」と呼ばれるものである。

教会とキリスト者は、古い時代と新しい時代が重なり合う時代に置かれているが、彼らはキリストの贖いによってすでに新しい時代へと移されている。そして「すでに」と「いまだ」という緊張の中にある。

すでにキリストにあって完全であり、成熟した者たちは、いまだ達していない本物の完成、成熟に向かって生き、成長していくのである。現世における相対的完全は「すでに」起こったことであり、キリスト者はその中を生きている。そして「いまだ」起こっていない究極的完全に向かって生きているのである。

特に成熟・完全の概念では、「すでに」と「いまだ」の連続性に強調点がある。究極的完全・成熟は、相対的完全と連続性があり同質のものである。現世の相対的完全は、やがて到来する完成を先取りしたものであり、将来の完全・成熟を信仰によって前倒しで生きることであると言える。

教会論からの位置づけ

またパウロ神学の中で成熟・完全を位置づけるために大切なことは、パウロの教会論である。パウロの救済論は、キリスト者個人を想定していない。パウロの中では救済論と教会論は切り離されていない。個人の救いや個人の救いの完成のプロセスといった概念は、つねにひとつの教会という全体性の中で言われている。パウロの成熟・完全は、教会全体のものであり、キリスト者個人に限定されるものではない。
これらは、解釈の部分でパウロが複数形と単数形を注意深く使い分けながら、多様性と全体性のバランスをとっていたことからも明らかである。キリスト者は教会人として、他のキリスト者とともに、成熟・完全の完成を目指しながら、ひとつのキリストのからだとして、現在を生きるのである。

(岩上氏はさらに教会への適用として、現在のコロナ禍の苦難をキリストの十字架の苦難と重ね、世界と共に苦しみ愛を示すべく召された教会の姿を示します。2021年12月19・26日号掲載記事)